「神の存在証明」における
存在の原因と様相概念について

中野彰則

『スピノザ協会会報』48号掲載


2005年10月1日の第40回スピノザ研究会における発表の発表者自身による要旨です。


 『エチカ』第一部定理11では「神は必然的に存在する」ことの証明が計三つ試みられている。二つのいわゆる「アプリオリ」な証明のうち、その第一は次のようなものである。もし実体である神が存在しないとするならば、「存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない」という第1部公理7により、その本質は存在を含まないことになってしまう。しかし、いま神は実体であると言われているのであるから、これは「実体の本性には存在することが属する」という定理7と矛盾する。したがって、神は必然的に存在する。

 しかし、われわれの思考において「その本質が存在を含むものとしか考えられない」からといって、神が必然的に存在することになるという、概念上のものから現実的なものへの移行の理解は非常に難解である。実際これに対する疑問は、例えばオルデンブルグによるスピノザ宛の書簡の中でも述べられている(Ep3)。しかしその返信においてスピノザは、哲学者であれば「虚構」と明晰判明な観念すなわち真なる観念との相違は分かっているはずだと述べて、これ以上何も言う必要はないと答えるにとどまる。第一証明にはこのような疑問が付きまとうのだとすれば、第二証明はこれに対する説明、あるいは第一証明にとって何らかの補完的役割を果たしているものと考えることはできないだろうか。もしそうであるならば、ここでのスピノザの回答は第二証明と関わりのあるものとして理解できるのではないか。

 第二証明においてスピノザはまず、事物の存在に関して考えられうる限りのすべてのケースを記述しようとする。すなわち、あらゆる事物について「なぜそれが存在するか」だけでなく、存在しないのなら「なぜそれが存在しないのか」の原因についても問われなければならない、との要件が加えられる。つまり存在するために何らかの原因ないし理由があるというだけでは十分ではなく、存在しないことについても何らかの原因ないし理由がなければならない。そしてそれを存在させるあるいは存在させない原因ないし理由は、その事物のうちに含まれているか、その事物の外部にあるかである。その事物を仮にXとする。

という四つのケースが考えられる。神と同じ本性を有する実体は存在せず(E1p5)、異なる本性を有する実体であれば原因とはなりえず(E1p2)、したがってAとCは否定される。また、それを存在させない原因を自らのうちに含むような矛盾する存在として「絶対に無限で最高完全である」神を考えることはできず、さらにBが否定される。したがって少なくとも第二証明は、四つのケースのうち、三つを消去することで残るひとつに絞り込み、神は必然的に存在するということを証明しているのではないか、というようにも考えられよう。しかし、これは三つの可能性を否定するだけの消極的なものであって、結局それを存在させる原因があるということが積極的に証明されているわけではない。三つの可能性についてはそれぞれ検討がなされているのに、最後にひとつだけ残ったものについては何の吟味も加えずに認めてしまうことは公平ではないだろう。なぜ残ったひとつは確実であると言えるのか、それが説明されていなければ、存在させる原因もないという可能性だってあるのではないか、という疑問を否定しきれない。つまり第二証明は、存在させない原因もなければ存在させる原因もない、というケースを留保することによって成立していることになる。しかし、ここではそれが問題とされてはいない。

 第二証明でスピノザは、ABCは消去されて残るのは@だから、ということを論証の中心としていないのではないか。実際この証明において、それに該当するような明確な表現を見出すことはできない。第二証明が証明すべき結論として言われているのはただ、「神のうちにも神の外にも神の存在を排除する何の原因ないし理由もない。そしてそれゆえに神は必然的に存在する」(傍点引用者)ということである。つまり、存在させない原因がないということだけから直接神の必然的な存在が結論されている。ここではスピノザの表現通り、存在させない原因がないことから端的に神が必然的に存在することが帰結されなければならないのではないのか。例えばもし、Xを存在させない原因がないからXを存在させる原因があることになり、したがってXは存在するという論証のプロセスなのであれば、ここでは「存在することを妨げる何の理由も原因もない物は、結局その物が存在することを定立する原因ないし理由があるのであり、したがって必然的に存在することになる」、あるいは、三つのケースが否定されていることをふまえて正確に言うならば、「神の存在することを妨げる何の理由も原因もなく、またその外には神の存在を定立する原因もないのであるから、神の存在を定立する原因ないし理由が神のうちにあるということになり、したがって神は必然的に存在することになる」というような表現であってもよいだろう。神を存在させる原因があるほかなく、したがって必然的に存在するということを示すことがこの証明の骨子であるのならば、むしろそれが明記してあったほうが誤解が少なくてすむ。ところが、第二証明の後半全体の議論の流れは、BでもCでもないから必然的に存在するというものであり、スピノザ自身次のように強い調子で述べている。「神の存在することを妨げたり神の存在を排除したりする何の理由も原因もありえないとすれば、我々は神が必然的に存在することを絶対的に結論しなければならぬ」(傍点引用者)。このように、必然的に存在すると結論できるためには「存在することを妨げる何の理由も原因もありえない」ということが言えればよいことになっている。しかしなぜそのように言えるのか。

 再度、証明の初めに戻って考えてみたい。そこでは存在するものあるいは存在しないもののそれぞれについての原因ないし理由があると言われていた。その原因ないし理由はそのもののうちにあるか外にあるかということをふまえて、存在に関して四つのケースが考えられうる。第二証明ではそれぞれのケースについて該当するような具体例が述べられている。すなわち、@は実体、Bは「四角の円」、そしてAないしCに該当するものは円や三角形である。これらはそれぞれ、次のような様相において考えることができる。すなわち、「四角の円」のごときその本性が矛盾を含むものは「不可能」、その本性が存在を含む実体については「必然」、そして三角形のように、その本性のうちにはそれを存在させるあるいはそれを存在させない理由もなく、その存在がそのものの外的原因に負っているものについて言われる「可能 (ないし偶然)」である。ところが第二証明では、そうした可能的な存在者として考えられる三角形の存在は、「現に必然的に存在するか、それとも現に存在することが不可能であるか」とされている。第二証明において特筆すべきなのは、このように円や三角形のような、一般に偶然的な存在者と考えられるようなものについても、「必然的に存在する」と言えてしまう点である。つまり、四つのケースに対応させるならば、Aの場合においても「現に必然的に存在する」。すなわち「存在することを妨げる何の理由も原因もない物は必然的に存在する」のである。したがって、神についても、神の本性がこうだから必然的に存在するのだ、というようには考えられてはおらず、神に限らずそれがいかなるものであっても、BでもなければCでもないということであればそれは必然的に存在するということになっている。必然性を神のみに帰することなく、被造物についても同じ様相において一義的に考えられているのである。この点が、スピノザの様相概念が非常に特異なものであることを示している。

 スピノザは第二証明において、こうした自らの様相概念を導入して考えているのではないか。だとするならば、第二証明の冒頭で、「すべて物についてはなぜそれが存在するか、あるいはなぜそれが存在しないのかの原因ないし理由が指示されなくてはならぬ」と述べていることを、こうした様相概念の意味において読めば次のようになる。つまり、事物が「存在するか存在しないか」とは、言い換えれば必然性か不可能性か、そのいずれかの様相においてあるということを含意しているはずである。したがって、三角形の存在は必然的か不可能であるかということから、存在させない理由も原因もない物は必然的に存在すると「帰結される」と言えるのである。スピノザは第二証明において、必然と不可能という二つの様相概念に照らして、神を存在させない原因がありえないということ、すなわち神が存在しないことはありえないことを証明し、神は端的にもう一方の様相である必然性においてしかないということを提示する。「存在しないことがその本性に矛盾するもの」は必然なのであるから、神は必然的に存在するというほかない。

 このようにスピノザの様相概念の観点から考えていくならば、存在させない原因もなければ存在させる原因もないというケースの留保は、そのケースが実は事物にとって必然も不可能も意味していないということから説明できるだろう。すなわち、存在させない原因もなければ存在させる原因もないなどとして、その事物が存在しているか存在していないかがわからない、あるいは存在するかもしれないし存在しないかもしれないと言うのは、それを必然的なものにしているか不可能なものにしているかの原因ないし理由を知らず、その存在を「虚構」しているだけのことにすぎない。実際、「もし外的原因に依存するその必然性あるいは不可能性が我々に識られたとなると、我々はそれについて何ごとをも虚構することが出来なくなる」(TIE§53)。

 例えば定理8の備考の2では、定理7の証明がある人々にとっては理解が困難なものであるが、実体の本性に注目すればそれを容認するほかないことの指摘がなされ、「実体の本性には存在することが属するのであるから、その定義は必然的な存在を含まねばならず、したがって単にその定義だけからそれ自身の存在が結論されなければならぬ」と述べられている。そして先に述べた「創造されない事物の定義の要件」の二として、その定義が一度与えられれば「それが存在するかどうかという問題の起こる余地があってはならない」(TIE§97)。また第二証明の前半においても、第一証明と同様、定理7への参照が指示され、実体について「なぜ実体が存在するかということは、やはり実体の本性のみから出てくる。すなわちその本性が存在を含むからである」と言われている。また、第一証明が定理7をその証明根拠にしていることをふまえて、「実体」が一義的に用いられていることを認めるならば、無限に多くの属性を有する「実体」、すなわち神についても同様のことが言える。少なくともスピノザにとっては、本質と存在が同一であるということに注意し、神についての真なる観念を備えていれば、神が必然的に存在するということは実際には何ら問題のない明白なことであって、本来「神の本性を識る以上は、神の存在または不存在を虚構することが出来ない」(TIE§54)。にもかかわらず、「虚構」と真なる観念の相違を理解せず、神の存在について疑う人々がいる。例えば冒頭のオルデンブルグのように、彼らは神を「その本質が存在を含む」ものだと概念することはできても、だからといって現に存在するとは言えない、現に存在しないかもしれないと疑う。それはスピノザの言葉を借りれば、「自分は真の観念を持っているがそれにもかかわらずそれが誤った観念ではあるまいかと疑う」(E1p8s2)と言うようなものである。スピノザは第二証明において、神の存在についての「虚構」を矯正し、その「虚構」が不可能でしかないことを示すことで神の必然的な存在を証明しようとする。

 第一証明が、神における本質と存在の結合から、その必然的な存在を証明しようとするものの、ある人々にとっては神の存在への疑いを抱かせてしまうことがあるのに対して、第二証明はスピノザの特異な様相概念に基づいてその問題を解消しようと試みる。その際、第二証明の構造を単に、存在させない原因がないから存在させる原因があると主張しているというものだとするだけでは、存在させない原因もなければ存在させる原因もないと考えられるという可能性を否定できない。また存在に関して考えられうる四つのケースのうち三つを否定し、残ったひとつから存在させる原因があると帰結するものとしていると考えたとしても、残ったひとつが積極的に論証されているのでない以上、それが果たして確実なものなのかという疑問は拭えない。これでは、存在させない原因がないということから神が必然的に存在することを「絶対的に」帰結するスピノザの論証の意味は汲み取れないのである。しかし、第二証明をスピノザの様相概念に照らして考えるならば、存在させない原因もなければ存在させる原因もないなどというケースはありえない。それは神に限らず、存在そのものの在り方を「虚構」するものである。その「虚構」を排し、神が存在しないことはありえないということを示すことによって、端的に神の必然的な存在は証明される。神は不可能性においてあるのでも、可能性においてあるのでもない。神は必然性においてしかありえないのである。第二証明は、神の存在の不可能なことの不可能性を示すことによって、すなわち「虚構」を不可能にすることによって、神を存在させる原因を積極的に論証することを俟たなくとも十分に神の存在証明としての目的を遂げるのである。神のうちにも神の外にも存在させない原因がないということから、神の必然的な存在が「絶対的に」帰結されなければならないというのはこの意味においてである。



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