コナトゥスから戦争へ

― レヴィナスのコナトゥス批判における「疚しさの欠如」について ―
河村 厚

『スピノザ協会会報』34号



本稿は 1999年9月25日の第23回スピノザ研究会における発表「『エチカ』における他者と倫理」の、発表者自身による要旨ですが、割愛したり付加した箇所もあります。なお本稿は、「コナトゥスをめぐる二つの倫理学 ― レヴィナスのスピノザ批判に対して ― 」(文献表参照) の第一章の一部を書き直したものです。(web版にかぎりアクセントなどは省きました)

 本稿は、レヴィナスがスピノザのコナトゥス (conatus) をなぜ批判するのか、あるいはそのどこを批判するのかという問題を、或る意味で政治哲学的に考察する。紙幅の都合上、スピノザに対するレヴィナスの批判の妥当性の検討は割愛するが、著者はスピノザ研究会での発表をもとに、「コナトゥスをめぐる二つの倫理学 ― レヴィナスのスピノザ批判に対して ― 」(河村2000)を既に発表しており、そこではレヴィナスによるコナトゥス批判とそれに対するスピノザ側からの反論をそれらの形而上学的側面をも考慮して論じているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。ここではあくまでスピノザのコナトゥスに対するレヴィナスの批判の根拠という論点に限定して考察したい。そこにおいては、アドルノのスピノザ (のコナトゥス) 批判がレヴィナスのそれと極めて深い共通性を持ったものであるということも併せて示されるであろう。

 コナトゥス批判は、レヴィナスの「倫理」の根本モチーフである。確かにレヴィナスは、アドルノ(注1) と共にハイデガーの「現存在」をも「自己保存のコナトゥス」を表したものとして批判し、またこのコナトゥスの思想史的起源はストア派の"horme"にまで遡ることができると考えていた (『他者のユマニスム』 45)。つまりレヴィナスは、コナトゥスの存在論の歴史全体を批判の対象としていたのである。しかし、レヴィナスのこのコナトゥス批判はとりわけスピノザのコナトゥスの倫理学を意識してのものであったということも事実である (河村2000, pp.55-57)。レヴィナスは激しい言葉でスピノザあるいはスピノザ主義を批判するのが常であるが、『聖句の彼方』 (1982年) ではこう言っている。

「ユダヤ教の最初の啓示は、他ならぬコナトゥス (conatus) の異論の余地なき権利、因果関係以外の存在理由なしに存在に固執することへの権利を審問するものではないでしようか。この部屋には何人もの優れたスピノザ研究者がいらっしゃいます。コナトゥスを問いただすことが彼らの目にどれほど許しがたいことと映るかは分かっているつもりです。自然に反した問い、自然の自然性そのものに反した問いなのですから!ですが、存在に分析的に、動物的に内属した、存在し続けようとする固執、正当な根拠を欠いたこの自然な要請、生命空間 (espace vital) のこの要請、それが正義なのでしょうか。 ― 中略 ― そうではなく、正義は人間の顔、隣人の顔の先行的な啓示、他の人間に対する責任を含意しているのです。」(『聖句の彼方』77-78)

 そして、スピノザのコナトゥスの存在論に対するこの激烈な糾弾の直前の箇所で、レヴィナスはタルムードのある箇所を解釈しながら、自己の存在に固執するという動物的エネルギー、つまりコナトゥスが社会、闘争、敗北と勝利の秘密を握っており、「論理学それ自体の厳密さも、推論する能力や『正しい方向を向いた諸観念』全てが持つ力」もこの動物的エネルギーとしてのコナトゥスに由来しているということを確認しつつも、「このコナトゥスはどんな正当化にも、どんな糾弾 (=告発 accusation) にも無関心」で、「問いを欠いている sans question 」と批判している (『聖句の彼方』 77)。つまり、コナトゥスの存在論においては、自己の存在を保存すること、自己の存在に固執することが至上の命題として、何の疑念もなく無条件に受け入れられ肯定されているということである。

 レイ (Jean-Francois Rey) は、『聖句の彼方』のこのコナトゥス批判を『神学政治論』第16章の自然権としての「自己保存のコナトゥス」について述べられている「各々のものは、それ自身においてある限り、自己の状態に固執しようと努力する (conetur) こと、しかも、それは他のものを顧慮することなくただ自己をのみ顧慮して (注2) そうであるということが自然の最高の法則である」(TTP/XVI/189) という箇所を引きあいに出すことによってスピノザ政治哲学への批判として読み、その根本にあるコナトゥスの「問いを欠いた」性格、他者に対し無関心で、他者からの糾弾=告発訴を受け付けない傲慢な性格を問題にしている (Rey, "Levinas et Spinoza", p.232)。

 コナトゥスのこの唯我独尊的性質、「自我の帝国主義」は、他者に無関心であるが、それは他者からの「糾弾=告発 accusation」に無関心であるということをも意味しているのである。各人の自己の状態に固執しようとするコナトゥス (努力) は、自然権として、自然の最高の法則として与えられているわけであるから、他者にはそれを「問題化」したり、裁いたりする資格などはないというのである (『聖句の彼方』83 )。

 レヴィナスにとって、この「自己保存のコナトゥス」の独善的な傲慢さを打ち砕くもの、〈私〉のコナトゥスに制限を加えることのできる唯一のもの、それは、他人のための善、「存在の彼方」にある善である。スピノザのように存在と善を同一視する立場には、戦争の危険が潜んでいる。「コナトゥスのエゴイズム」が意味するのは、自分が存在するということに懸念 (inquietude) を抱かずに存在できるという権利を優先させるということであり、それが徳と同一視されるのだが、このように理解されたエゴイズムに囚われた人間は、そこから一挙に我欲に囚われて生きることに「疚しさ」を感じなくなるのである。このようにして善と同一視された生命力 (コナトゥス) は、「全体性」の哲学が最後に行き着くところの「戦争」において極まるのである (Rey, p.233)。レヴィナスは、戦争は「疚しさの欠如」から生まれ、「疚しさの欠如」によって恒久化されると考えている (『存在するとは別の仕方で』 271-272)。「自己保存のコナトゥス」にまつわる「疚しさの欠如」が戦争に通じている。レイはそれを、「コナトゥスは、自己の存在に固執しようとする努力の快活な無邪気さ=罪のなさ (innocence) のうちに自らの正当化を見出すアンチヒューマニズムの (戦争?) 装置の一部分であり、その (戦争?) 機械の一つのエレメントである」(Rey, p.231) と表現している。

 しかしレヴィナスにとっては、この「疚しさ」こそが ― スピノザとニーチェによる「良心の疚しさ schlechtes Gewissen」解釈 (注3) を逆手にとって ― 「倫理」の可能性への鍵を握っている。「人間の人間性とは、おそらく、存在のうちに固執する存在の『疚しさの欠如』を再 - 審問する (問い直す) こと (la remise en question de la bonne conscience de l'etre qui persevere dans l'etre)である」 (『観念に到来する神について』11)。では、自己の存在を保存することに「疚しさ」を感じるとは具体的にはどういうことを意味しているのか。マルカとの対談の中でレヴィナスはこう語っている。

 「〔本来の意味での人間らしさとは〕」他人の場所を不当に占拠してしまっているのではないかという懸念 (inquietude) です。存在の中の自分の席、自分の場所についてこのように審問すること、これはユートピアじゃないんでしょうか。ユートピアと倫理!それは実存することに疚しさを感じないで (dans sa bonne conscience) 安住している存在を逆転させ、転覆させます。それを私は『存在するとは別の仕方でautrement qu'etre』と呼んでいるのです。」 (マルカ『レヴィナスを読む』109-110)

 自分が存在していることが既に他者の存在の排除と他者への暴力の上に成り立っているかもしれないことへの自覚と、それゆえの自己の存在の「正当性」への審問。実はアドルノも『否定弁証法』(1966年) で同様のことを言っている。

「〔自らがそこに停留している生そのものが妖怪と化し、冥府と化しているのではないかと〕自己保存はただ疑ってみなければならない。生の罪過 (Schuld)。生は生であるという純粋な事実によって既に他者の生の息の根を止めているのだ。圧倒的な数の虐殺された人々の代わりに、ごく少数の救われた人々がいるという統計に相応しているというわけである。」(『否定弁証法』357)

 これで「疚しさ」を感じるということの内容 ― あくまで対象ではなく ― は判明した。だが、いかにして〈私〉は「疚しさ」を感じるようになるのだろうか。というのも、レヴィナスによると、「疚しさ mauvaise conscience」とは前-反省的、非-志向的な受動性の意識、「対格 accusatif」がその第一格であるような意識であるが、そのような意識には、能動的、主体的な対象認識は初めから不可能であるからだ (『観念に到来する神につい』258-262)。レヴィナスはこう答えている。

「志向的にも、意識的にも、全く潔白であるにもかかわらず、なお私が実存していることが原因でもたらされるかもしれない暴力や殺害の全てに対する恐れ。この恐れは私の『自己意識』の背後を通って、それがどんな疚しさの欠如 (bonne conscience) であっても、すなわちどんなに繰り返しひたすら存在に固執することであっても、そこへと追い詰めてくる。この恐れは他者の顔から (du visage d'autrui) 私のもとに到来する。」(『観念に到来する神について』262-263)

 「疚しさ」の発生は決して、〈私〉のイニシアティヴによってはなされない。「審問されている存在」でしかありえない「疚しさとしての存在」は、「世界のうちにではなく、審問のうちに」あり、その他者 (の顔) によって審問されてあることを自らの根拠としている。「疚しさとしての存在」が「対格 accusatif」を意識の始原として持つということは、他者からの「審問」、「告発 accusation」に常に全的に晒されているということ (裸出性) のその「受動性」のうちにしか考えられないような存在であるということだ。

「問題なのは、意識を審問することであり、審問についての意識ではない。『自我』は、自己との至上の一致を失う。つまり、意識が勝ち誇って自分自身に帰還して、自分自身の上に安らうための場所としての自己同一化 (identification) を失うのだ。『他者』の要求に直面して、『自我』はこの安らぎから追放されるのだが、そのような『自我』は、もう既に栄誉に包まれた、亡命の意識などではない。どのようにであれ自己満足するとしたら、倫理的運動の廉直さは破壊されてしまうであろう。」 (『実存の発見』195)

 他者からの「審問」、「告発 accusation」に対格的に、常に全的に晒されているため、自己の下への凱旋帰国は許されない。自己という最終的な逃避のための安息所は「疚しさの意識」には最初から奪われている。安息は永遠に他者に差し出されているのである。対格的に全てを曝け出すとはそういうことだ。絶え間なき難航としての「倫理的運動」には終点がない。つまり母港には戻れない ― というかそもそもの初めから母港などなかったことに、他者からの「審問」と「告発」のただ中で気付くのである。「疚しさ」とは、「『地の異邦人』であり、祖国も定住の家も持たない」(『観念に到来する神について』 261) ということである。「意識の中にこのような倫理的運動を誘発し、『自同者』の『自同者』自身との一致についてのよき意識=疚しさの欠如 (bonne conscience) を乱す『他人』」(『実存の発見』196)。つまり、『自我』は「自らの意識が自分自身の上に安らうための場所としての自己同一化を失う」ということが意味するのは、そこまでに至った倫理的主体にとっての「『自己』とは、『自我』の自同性 (identite) の破損ないし敗北」(『存在するとは別の仕方で』31) であるということである。

 このように、コナトゥスの「問いを欠いている」という性格 (疚しさの欠如) への審問 ― 自己のうちでの閉ざされた自己反省ではなく他者からの「強迫」、他者の「顔」の切迫に不可避的に促されての審問 ― こそが、レヴィナスのコナトゥス批判の最も重要な核心部分である。そして結局、コナトゥスと戦争との結びつきを説明するのが「疚しさの欠如」であった。レヴィナスは、「どんな正当化にも、どんな糾弾=告発 (accusation) にも無関心」な、いわば「問いを欠いている」コナトゥスのこの傲慢な獣的エネルギーの展開は必然的に戦争へと至ると言っているのだ (『聖句の彼方』76-77)。このことは『存在するとは別の仕方で』(1974年) ではこう語られていた。

「我欲に囚われて存在すること (interessement) が存在者の努力 (conatus) として確認されるのは肯定的な仕方においてである。そして肯定性というものは、この努力以外の何を意味しえようか。存在が我欲にからめとられてしまうことからは惨劇が生じるが、その惨劇とは、エゴイズム同士が一方と他方とで、全体と全体とで闘争するという事態の中で、一方と他方との戦争においては、それぞれのエゴイズム同士はこのようにまとまった総体と化しているというアレルギー症のエゴイズムのこの複雑さ (多様性) の中で劇化されるようなものである。戦争とは、存在することが我欲にからめとられてしまうことを描いた武勲詩ないし悲劇なのである。」 (『存在するとは別の仕方で』15)

 レヴィナス独特の文体で、コナトゥスから戦争そして全体主義への道が、実に巧みに表現されている。ところで、アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』 (1947年) の中で、「『自己保存の努力 (Conatus sese conservandi) は、徳の第一のそして唯一の基礎である』というスピノザの命題〔E/IV/22C〕は、全西欧文明にとって正しい格率を含んでおり、この格率のうちに、市民層の間の宗教上、哲学上の論争=差異 (Differenz) は収まる」が、「自己保存」が持つ生きるか死ぬかの究極的な二者択一という強制的性格から「論理的法則の排他性」が生じ、それが「人間の物象化」と「支配の不可避性」という全体主義を暖める思想的基盤を用意すると指摘している (『啓蒙の弁証法』 35-38)。そして、スピノザの『エチカ』 (と 『政治論』 ) における自然主義的な「現実主義(リアリズム)」 ― 勿論、その自然主義の根拠には、人間がその一部分である自然 (pars naturae) の普遍的法則としての自己保存のコナトゥスがある (E/IV/4・D, TP/II/5) ― とファシズムとの結びつきをこう分析する。

「啓蒙は、感情を『線や面あるいは、物体を研究するのと同様に〔E/III/Prae, TP/I/4〕考察する。全体主義的秩序は、これを大真面目に受け取った。 ― 中略 ― ファシズムは、定言命法に反しながら、それだけ一層深く純粋理性と一致して、ファシズムは、人間を物として、行動様式の核として取り扱う。」(『啓蒙の弁証法』93)

 コナトゥスの存在論的な自己中心的排他性から論理学的・科学的真理の排他性が生まれ、それが戦争の、そして「一つにまとまって全体を形成しているエゴイズムの群」としての全体主義の出現へとつながっていくというプロセスの描写においてアドルノ/ホルクハイマーとレヴィナスは見事に一致している。これは、両思想家がナチズムの「体験」を西欧の哲学の根源にある「自己保存のコナトゥス」という概念にまで遡って徹底的に考え抜いたということを意味しよう。レヴィナスはマルカとの対談においては以下のように、「自己保存のコナトゥス」という人間本性の根源的な衝動と、あのファシズムの残虐さとの直接的な結びつきについて具体的に語っている。

「 (『存在するとは別の仕方で』のエピグラフの「その日の当たる場所は私の場所だ。これがあらゆる地の簒奪の開始であり原像である」という) パスカルからの引用から1939年の戦争のことを思い出して下さい。あの戦争が勃発したのは、ナチス・ドイツが、死活にかかわる空間 (espace vital)、ドイツにとっての『日の当たる場所』を要求したからなのです。それは存在が存在に固執しようと努力することが当然とされるような秩序を要求したということなのです。」(マルカ『レヴィナスを読む』110)

 もっとも、レヴィナスの戦争と「全体性 totalite」についての哲学的考察は、もともとは「存在論的」な含意を持った独特のものでもあった。例えばレヴィナスは、『全体性と無限』(1961年) においてこう述べている。

「戦争において顕示される存在の様相を定めるのが全体性の概念である。そして、この全体性の概念が西欧哲学を支配しているのである。西欧哲学においては、個体(フォルス)は力の担い手に還元され、知らぬ間にこの力によって命じられる。諸個体はその意味(サンス)を全体性から借り受ける (この意味は全体性の外では不可視のものである)。」 (『全体性と無限』6)

 この言明は、パルメニデスからスピノザを経てヘーゲルに至る「全体性」が支配する西欧哲学の伝統への批判ではあるが、「コナトゥス」を軸に、スピノザの (有限様態としての) 個物の定義への批判として読むと符合する点が多い。それは ― その批判の妥当性は敢えて問わずにレヴィナス側からの視線で見るなら ― つまり、その本質が存在を含まず、それ自体で考えれば、たとえ存在していても、それを存在しないものとして考えることができるような存在である有限様態としての個物あるいは人間は (E/I/24, II/Ax1, EP/12)、神=自然から「与えられた 本質essentia data」としてのコナトゥスによって、神=自然の力 (能) を「表現=展開する」限りにおいてのみ現実に存在し活動することができるというスピノザの個物の定義である (E/I/25C, III/6・D, 7・D,IV/4D)。諸個体に優先する「全体性」(実体=神)、その「全体性」の力を引き受け、担う (「表現=展開する」) ことによって初めて、諸個体は「意味」(存在) を全体 (実体=神) から拝受するという構図がぴったりと一致するかのようである。そして、「問いを欠いた」コナトゥスのエゴイズムが、倫理として「徳」の名にすり替えられる時、そこにこそ自己中心的排他性と独善性の合体から戦争の危機と、「(他者との) 差異の解消= (他者への) 無-関心」(in-difference) としての「全体」主義が生まれるという考え方は、「スピノザにおいては、有限なものは何も意味を持たず、唯一の実体の中に同一化、没入している」というような形而上学的レベルでの、スピノザの実体に対するヘーゲルの批判をそのまま政治哲学的に読み替えたと言ってもいいような解釈である。

 そして実はアドルノも「個」と「全体」の関係について、レヴィナス同様にスピノザの名は挙げずに興味深い指摘をしており、二つの点でレヴィナスと深い共通性を持っている。まずは、個体が全体に対して自己の力で貢献せざるをえないという「全体性」の力学のシステムについて。アドルノは「個人を含めた全体がこの〔普遍者と個人の〕相克 (Antagonismus) を通してのみ維持されているということは、個々人自身のうちに表現されている。たとえ意識があり、普遍性を批判する能力を備えていても、人間は自己保存という不可避の動機によって、普遍者が盲目的に自己主張するのを助けるような行動や態度を際限なく取るように強要されている。意識の上で普遍者に反対していてもそうせざるをえない。人間は生き残るために、自分と疎遠なものを自分自身の事柄とせざるをえないという、もっぱらそういう理由からあの宥和性という仮象が生じる」と語っている (『否定弁証法』306)。次に、個体 (人) は、全体性から圧倒的な認識論的魔法をかけられているため、自らが全体性によって既に総力戦に借り出されてしまっていることを認識することができないということについては、「全体はただ個体の自己保存という原理 ― 中略 ― を通してしか機能しえないのだが、その全体が、もっぱら自分のことしか考えないように各個人を強要して、客観性を洞察できないようにしてしまう ― 中略 ― この個体化は、自分が疑う余地もない程確実なものであると思い込んでいる。そして魔法にでも掛けられたかのように、誰が何と言っても自分が媒介されたものであることを認めようとしない」(『否定弁証法』306-307) と語っている。「全体性」を批判して他者との「非対称性の倫理」を徹底的に考えたレヴィナスと、「同一性」を批判して「非同一性」というものについて徹底的に考えたアドルノは、(スピノザの)「自己保存のコナトゥス」批判という点で、このように幾重にも重なり合っている。

 レヴィナスそしてアドルノによると、「コナトゥスの倫理」は必然的に戦争に行き着いた。そして「戦争」は政治的なるものが「倫理」から独立してしまったことを意味している (『全体性と無限』5)。では、戦争を回避しうるような「倫理」とはどのようなものなのであろうか。レヴィナスによると、コナトゥスが戦争を生み出すのは、そこには自己の存在についての「疚しさ」が欠如しているからであったから、このようなコナトゥスの正当性を問いに付し、それを審問し、無制限に自己の力の増大を目指すというコナトゥス自身の性格を解消し超脱してしまうことに戦争を回避できる「倫理」というものが見えてくる。実際レヴィナスは、「倫理」というものを、「存在することの彼方へ」と、「コナトゥスの彼方へ」と脱出すること、言い換えれば「我欲に囚われて存在することinteressement」を抜け出す運動として考えている (『存在するとは別の仕方で』 30)。それは自己の「コナトゥスの彼方へ」と向かう「運動」である限りにおいて、自己の死をも超えて「他者のために」、「他者への責任」を成就しようとする「運動」でもある (『我々のあいだで』 228)。レヴィナスは、一方で「コナトゥス」は、人間をも含めた存在するもの全てに内属する「一般構造」であり (『我々のあいだで』10)、我々が事実上常に住んでいるのは、自己の存在への固執、復讐と戦争が支配する世界であるということを認めつつも、「他者 (の顔)」による〈私〉のコナトゥスの審問と、それを引き受ける能力としての「傷つきやすさ=可傷性 vulnerabilit氏vによって、そのような世界に別れを告げ、自己に対する他者の優先が、「他者のために」が支配する世界へと脱出するという人間にのみ開かれた一つの「可能性」を認め、この「存在論的な不条理性=非常識 absurdite ontologique」としての「可能性」のことを「倫理」と呼んだのである (『観念に到来する神について』134、『歴史の不測』201)。
 
 以上から判明したのは、レヴィナスは、コナトゥスの持つ「疚しさの欠如」という性質が必然的に他者の排除、他者への抑圧に結びつき、それが究極的には戦争と全体主義へと至るという理由から、コナトゥスを批判しているということである。だがその批判は、特にスピノザ哲学におけるコナトゥスに対する批判としては不十分なものではなかろうか。ここでは詳述できないので詳しくは拙論 (河村2000) を参照していただきたいが、一つだけ挙げるならば、スピノザの言う「自己保存のコナトゥスconatus sese conservandi」における「自己」とは、他者との妥協や共同を頑なに拒む我欲の硬い塊ではなく、レヴィナスが言うような「アレルギー性のエゴイズム」と「自我の帝国主義」が支配する排他的な主体などでは決してないということである。神の力能を表現し、自己以外の事物や他者へと開かれていることによって初めて存在しうるようなスピノザ哲学に独特の「様態としての自己」について、レヴィナスは捉え損なっているようである。しかし、そうであっても、例えばそのような「自己」の「自己保存のコナトゥス」に基礎付けられた『エチカ』の「倫理」においては、他者に対する「責任」と愛の究極において他者のために死ぬことすらできるというレヴィナスが目指した自己犠牲の「倫理」は不可能あるいは無意味なものになってしまうということも事実であろう。そして両者には相違ばかりではなく、「傷つきやすさ=可傷性」と「感情の模倣」のように極めて近しい考え方も存在している。事態はそう単純なものではなく、レヴィナスのスピノザ批判が投げかける問題は極めて大きなものである。


  1. Adorno,T.W.,Jargon_der">Adorno,T.W.,Jargon der Eigentlichkeit, S.494, 504.
  2. これとは全く逆にレヴィナスは、「『自我』の個体化ないし超個体化の本質は ― 私にとっては、〔私は〕存在するもの全てに対して存在するということ、それも私が存在するもの全てを顧慮しつつ (par 使ard pour) 存在するがゆえにのみそうであるということにある。そしてこれこそが存在が贖われるということである」(『存在するとは別の仕方で』187-188) と言っている。
  3. ニーチェは『道徳の系譜』の中で、「スピノザにとって世界は良心の疚しさの発">ニーチェは『道徳の系譜』の中で、「スピノザにとって世界は良心の疚しさの発見以前にそうであった無垢=負い目なさ (Unschuld) に立ち戻った」と、「良心の疚しさ」(良心の可責conscientiae morsus) の道徳的欺瞞性を見破った先駆者としてスピノザを評価する (Nietzsche,S.280-281)。スピノザにとって "conscientiae morsus" は、評価されるべき道徳感情であるどころか、たんに「希望に反して起こった過去のものの観念を伴った悲しみ」(E/III/Ad17) であり、「落胆」ほどの意味しか持たなかった。"conscientiae morsus" は、「悲しみ」の一種であるがゆえに、それを抱いた者の活動力能 (コナトゥス) を減少させてしまうから (E/III/18S2, 37D, 57D)、その限りにおいてむしろ悪であり (E/IV/8D)、「無能な精神の標識」(E/IV/47S) に過ぎなかった。

凡例

スピノザのテクストはゲープハルト版全集を用いた。略例を以下に示す。

レヴィナスとアドルノの著作については日本語タイトルの後に原著の頁を入れた。


文献表( web版にかぎりアクセントなどは省きました)

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