(書 名) 失われた〈私〉をもとめて 
(副 題)  症例ミス・ビーチャムの多重人格
(著 者) モートン・プリンス
(訳 者) 児玉憲典

著名な精神科医による

多重人格に関する古典的な記録

序文 戸川行男

1994. 12   学樹書院

ISBN4-906502-01-6 C0097

A5並製/580頁/定価¥4200+税

第7刷 2010年新装版  内容は初刷とかわりません
  目次(概要) 本書について 著者について 書評・その他

概 要 
●1898年4月、23歳のカレッジの女子学生ビーチャムは、神経衰弱の症状を訴えて精神科医である著者の診療所を訪れる。
著者は当時の主要な治療手段である催眠を用いた治療を開始する。そして催眠下のビーチャムに接するうちに、ビーチャムとはまったく別のタイプの人格が彼女の意識下に存在していることに気づく。やがてこの人格は、数カ月を経て独立した個性を主張するようになり、驚くべきことにビーチャムの交代人格として覚醒下にも堂々と登場するようになる。〈彼女〉は「自分はサリーである」という。
●サリーは陽気で活発で悪戯好きな〈小悪魔〉であり、信心深く真面目で良心的なビーチャムを苦しめつづける。ビーチャムはサリーについて何も知らないが、サリーはビーチャムのことなら心の隅々まで知っている。著者はサリーを再び意識下へ戻してやればよいと考え、そのための治療を開始する。

●ところが、翌年の6月、今度はビーチャムでもサリーでもない第三の人格が登場してくる。この女性は、情感豊かで確固とした主張をもつ一見非常に健康的な人格をもっているようにみえる。著者は、この女性の個性を知って、自分のところに治療をもとめてやってきたビーチャムはじつは本物ではなく、この第三の女性こそが真のビーチャムだったのではないか、と考えはじめる。著者は悩み、悪戦苦闘する。学者としての著者の苦悩をよそに、三つの人格は一つの身体を奪いあう。……。
●この前代未聞の悲喜劇は著者が現実に体験した症例であり、学界ではつとに有名な記録として知られている。多重人格について言及される際ジャンルを問わず必ず引用される本書は、記録文学の傑作としても世界の読書人に注目されつづけてきた。

真の〈私〉をもとめるビーチャムの不思議な旅路と、第一級の精神科医による多重人格 − 世紀末に贈る異色の1冊。


本書について

「この本は私にとってなにやら一生涯の課題となった思い出の本である。・・・

私は十八年ほど前に私の『自我心理学』の冒頭にビーチャムのこの症例をあげ、これを、われわれ人間の自我とは何かという問題の出発点とした。現代の心理学は自我という問題を扱わない。大学の一般教育科目の心理学の講義には自我という言葉が見られないかもしれない。精神分析は上位自我と自我と無意識について語るが、知りたいのはそれら全部を含めての「自分」、「私」である。そしてこの「私」の分裂ということが、この本を買って60年以上にもなる今もって、そしてまた自我についてあれこれと論じてみた今でも、私にはわからないのである。プリンス教授は催眠術で、複数のビーチャムを単数のビーチャムに統合しようとするのであるが、この催眠現象というものにも私にはその満足な解説を行うことができない。それであるから私としてはこの本の問題を半世紀もかかえこんで墓の中まで持ってゆくことになりそうなのであるが、ともかくそれだけ私を自我問題に引きつけた振り出しがこのビーチャムの症例であることはまちがいない。このたび児玉憲典君がこの本を翻訳したということを聞いて、一番嬉しがったのは、私ではないかと思うのである。」

                                              戸 川 行 男   



■著者/訳者について

モートン・プリンス(Morton Prince, 1854-1929) 1854年ボストンに生まれる。ハーバード大学医学部卒業後、神経科医として活躍しつつ、シャルコー、ベルネーム、ジャネらの影響を受け、睡眠、ヒステリー、多重人格など、異常心理学の諸問題について研究。1906年創刊の「異常心理学雑誌」の編集に参与するほか、米国精神病理学会を創設するなど、アメリカの異常心理学界で指導的な役割を果たした。著書に『人格に関する臨床的・実験的研究』『無意識』など。

児玉憲典(こだま・けんすけ) 
1944年東京都に生まれる。早稲田大学大学院博士課程修了。医学博士。現在、杏林大学教授、早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。著訳書に『分裂病の精神病理』『アンナ・フロイト著作集7、8』、タラチョウ『精神療法入門』、ブロス『息子と父親』、ダルトン『PMSバイブル』など多数。


書評・その他
多重人格に関する関心症例報告は、実は1880年から1920年にかけてフランスとアメリカで隆盛を誇ったのである。大方から最大の権威と目されるのはJanet,Pであるが、アメリカにおいて同様の役割を果たしたのがボストン学派を率いるPrince,Mであった。Putnam,FWによると、「多重人格の臨床像は、時代を通じて驚くほど同一で」「初期の研究者たちの観察したものと現在われわれの見ているものとが非常に近い」から「一例報告を通読すると教えられるところが大きい」。確かに政治的・倫理的な運動が顕著に混入する以前の、精細な観察と記述に徹した古典的な症例報告、とりわけJaspers,Kが『精神病理学総論』のなかで「二重人格あるいは交代意識のもっとも見事な症例」と呼んだ本症例には傾聴すべきものが多々含まれている。
(略)・・・今日よく知られている多重人格患者は、メディアの中で安易に作り上げられたスキャンダラスなケースが少なくない。(略)・・・これらとは異なり、多重人格の精神病理学的理解と治療に先鞭をつけ、今日の治療者の手本となるような多くの知見をもたらしたのは、Wilbur,CBのシビルとPrinceの本書であろう。

「精神科臨床のための必読100文献―鈴木茂」(こころの臨床アラカルト増号03年5月より)