精神医学の哲学と精神病理学[2018.04.30]

精神医学の哲学と精神病理学

深尾憲二朗 [帝塚山学院大学]

精神医学と哲学fukao
 私は精神科医であり、哲学の専門家ではないが、哲学が好きである。そして、精神科医とは、私のように哲学が好きで、一生哲学と関わっていたいと思うタイプの人が選ぶ仕事の一つだと私は信じている。
 なにしろ、哲学だけで生活するのは今も昔も困難である。一方、医師は今も昔も生活を安定させてくれる職業の代表格である。したがって、まずは医師になり、医師の仕事で生活しながら哲学を嗜みたいと考える人たちが出てくるのは自然の成り行きである。しかも、哲学が好きな人は、たいてい 人間の精神面に興味が向いているので、医師の中でも精神科医を選ぶ傾向があるのである。
 ただし、このことは必ずしも、精神科医の多数派が哲学的であるということを意味しない。哲学的な精神科医が一定数いる一方で、まったく哲学的でない、俗物的な精神科医も大勢いるからである。
 以前は、精神科医という職業が、もっぱら「精神病院」という社会の影の中にある部分に結び付いていたために、イメージが暗く、好まれなかった。それで、医学部を出て、なろうと思えば何科の医師にでもなれるのに、わざわざ精神科を選ぶ人は、親の家業としての「精神病院」を継ぐのでなければ、どうしても精神医学に強く惹かれてしまう、哲学的な傾向が強い人に限られていた。
 ところが近年では、精神疾患についての啓蒙のおかげで、患者として精神科(心療内科)にかかることが恥ずかしいことではなくなり、そういう患者を治療する精神科医も日陰の存在ではなくなった。商売としても、やりようによっては、他の科の医師よりも儲けることができるようになった。それで、金銭欲と名誉欲のために医師になろうとする人にとっても精神科を選ぶことが魅力的になったため、昨今では哲学には何の興味もない俗物的医学生たちがどんどん精神科医になっているのである。
 私としては、そういう俗物精神科医は、同業者ではあっても、自分とはまったく違うタイプの人間だと考えている。はっきり言えば、一緒にしてほしくないのである。俗物精神科医が世間に対して影響力を持ちたくて、テレビなどのマスコミでもっともらしいことを喋ったり、書き散らしたりしているのを見ると、とても不愉快である。私の信じるところでは、精神医学は本当はあんなに分かりやすいものであるはずがなく、もっと難解で、どうしても哲学的になるような学問分野なのである。

精神病理学と哲学
 精神医学そのものが、時代が進むにつれて変化してきているのは事実である。特に今世紀に入って以降、脳科学や遺伝子研究の爆発的発展に伴って、脳科学や遺伝子研究に基づいた精神医学、いわゆる生物学的精神医学が発展し、医学部の精神医学教室ではもっぱら生物学的精神医学の研究がなされるようになっている。
 しかしながら、ある精神疾患の患者の脳に異常が発見されたとしても、それはその疾患の原因とは限らず、結果かもしれない。また、遺伝子に異常が発見されたとしても、それは原因というより、ある心理・社会的条件に置かれた場合に弱みとなるような素質なのかもしれない。精神疾患には心理・社会的要素を含んだ多様な側面があるため、身体疾患のように単純には扱えないのである。
 精神疾患についての生物学的研究が見落としているものや勘違いしている所を明らかにするためには、生物学的精神医学とは異なる傾向の研究、すなわち心理学的、社会学的、歴史学的、そして哲学的な研究が必要である。そして、わが国においては、精神医学における哲学的研究を担ってきた分野が「精神病理学(psychopathology)」であった。精神病理学の研究者は、さまざまな哲学を参照することによって、各種精神疾患についての既成の見方に根本的な再考を促すことを試みてきたのである。
 精神病理学が哲学的な研究分野であることには、生物学的精神医学を補うためという目的以外に、歴史的理由もある。そもそも19世紀以来、フランス語圏とドイツ語圏で発展してきた精神医学においては、精神疾患には身体疾患のように病理解剖学的な根拠が確認されなかったためもあって、さまざまな思弁的・哲学的な理論が唱えられていた。20世紀初頭に学問分野としての精神病理学を開いたヤスパースは、そのような好き勝手な哲学的理論の展開を禁じて、科学的な精神医学の基礎としての精神病理学を打ち立てるために、「記述現象学」という方法を提唱したのであった。
 ところが、この「記述現象学」がフッサール現象学に忠実でないと批判されたことや、フロイトの精神分析からの強い影響、また第二次大戦後に実存主義が流行したことなどのため、精神病理学に現象学・実存主義を始めとするさまざまな哲学の影響が流れ込み、結局はヤスパースの当初の意図に反して、極めて哲学的な色彩の強い分野になってしまったのである(ヤスパース自身が後に実存主義の主導的哲学者になってしまったのだから、当然の帰結とも言えるだろうが)。
 しかし、そのおかげで、もともと哲学的傾向が強いために精神科医になろうとする人たちが、そこで学究的な満足を得られる研究分野としての精神病理学が維持されてきた。かくいう私も、学生時代から精神病理学に惹かれて精神科を選び、精神科医になってからはずっと精神病理学の研究に勤しんできた。私や私と同じタイプの精神科医は、精神病理学によって救われてきたのである。

精神医学の哲学
 「精神医学の哲学(philosophy of psychiatry)」は比較的新しい分野である。これはわが国における精神病理学とはまったく由来が異なり、英米圏の科学哲学における一分野として勃興してきたものである。その由来から当然ながら、この研究分野の担い手は、精神科医よりも哲学者が多いようである。
 私は専門外なので詳しくは知らないが、近年の科学哲学においては「個別科学の哲学」が盛んになっているようである。「すべての科学がこのような条件を満たさなければならない」という一般理論の樹立はとっくに諦められたらしく、現在の科学哲学の課題は、社会の中で実際に進行している個別科学を具体的に調べて、その方法論を哲学的に研究するということらしい。つまり、現代の科学哲学には、原理的で硬直した主張はもはやなく、むしろ経験的に「これも科学だし、あれも科学だ」と認める柔軟な立場が主流になっているらしいのである。
 それだからだろうが、この分野の研究書を読んでも、研究者と話しても、私たち精神科医に対して厳しい意見はなされず、とても優しい言葉がかけられる。私などは、ウィーン学団の論理実証主義、ポパーの反証主義といった古典的な科学哲学のイメージを持っていて、「そんなことでは精神医学は科学とはいえない、こうでなければだめだ!」と説教されるのではないかと予想していたので、拍子抜けであった。
 しかし、現在の科学哲学のそういう傾向については、哲学が好きで、哲学者を尊敬している私だからこそ、不満を感じる。というのは、個別科学の独自の方法論なら、大工には大工の技術、料理人には料理人の技術があって、先輩から後輩へと具体的に伝えられてきたように、その分野の内部で有効に伝承されているはずなのである。だから、そういう現場へ哲学者がしゃしゃり出ていって、「なるほど、それも科学ですね」などと解釈する必要はないだろうし、そんなことをしても現場の人たちから嫌がられるだけだろう。
 かといって、科学哲学者たちが、個別科学の現場で研究者たちに要らぬ意見をしたり邪魔をしたりしないように努め、自ら個別科学の観察者や見学者に甘んじるというのなら、嫌がられはしないだろうが、それでは哲学者の名が泣くように思われる。私としては哲学者には、なんらかの原理的な思考によって、私たち実践者の行いを徹底的に批判し、根底からの再考を促すようなラディカルな存在であってほしいのである。
 ところで、私が精神医学の哲学に対して当初持っていたもう一つの心配は、いわゆる「反精神医学(antipsychiatry)」との関係である。さまざまな反体制運動が吹き荒れた1960年代に盛んだった反精神医学の運動は、当時の精神医学について、「科学を装っていながら、実際には政治体制による人権抑圧の装置にすぎない」と批判した。この反精神医学は科学批判における社会構築主義のパイオニアとも見なせるので、科学哲学の一分野としての精神医学の哲学が、社会構築主義の一分野としての反精神医学に染まっていて、政治的な意味合いで精神医学を批判しているのではないかと警戒していたのである。
 ところが実際には、精神医学の哲学の研究者たちはみな穏健で、過激な反精神医学については否定的なのである。この点については、精神医学の哲学の研究者の実際的傾向が良い方向に働いているように思われる。というのは、私も実地で働く精神科医として、反精神医学活動家の「精神障碍者を差別するな!」「人権を守れ!」というような原理主義的主張に対しては、実際的観点から反論せざるをえないことが多いからである。哲学者たちが、私たち臨床家の実際的で折衷的な考え方を理解して、味方についてくれるというのならば、政治的にはありがたいことである。

精神病理学と精神医学の哲学
 精神病理学と精神医学の哲学は、精神医学についての哲学的研究という点では同じだが、その一方で相違点も多い。
 第一の違いは研究対象についてである。精神病理学は、精神疾患患者の示す精神症状の記載とその解釈、また精神疾患の概念の提案と批判、あるいは精神療法やその他の治療法についての示唆をその目的としているが、精神医学の哲学はそういう実際の臨床的行為についての提案や批判はしない。むしろ外部的視点から、精神科医が患者に対して何を行っているのか、あるいは精神医療とはどのような社会的行為かなどと問題にするのである。
 第二の違いは方法論についてである。精神病理学は精神疾患患者の内面で起きている病的現象について、主観的に記載し、共感的に解釈しようとするのに対して、精神医学の哲学は、精神医療をできるだけ客観的に記述し、論理的に分析しようとする。またこのことと関連して、精神病理学は重症の精神疾患を、精神医学の哲学は軽症の精神疾患を扱う傾向がある。その理由は、重症の精神疾患は客観的な異常が明らかなので、むしろ主観的な理解の可能性が問題になり、反対に軽症の精神疾患は主観的な理解は容易なので、むしろそれを疾患として治療する行為の正当性が問題になるからである。
 第三の違いは参照する哲学の傾向についてである。精神病理学は、フッサールの現象学、ハイデガーの存在論、メルロー=ポンティの身体論など、現象学・実存主義哲学、あるいはポストモダン哲学といったドイツ語圏・フランス語圏(大陸系)の哲学を参照して議論を展開する。それに対して、精神医学の哲学は、もっぱらジェイムズやパースのプラグマティズム、ヴィトゲンシュタインやデイヴィドソンの言語哲学、あるいはサールやデネットの心の哲学といった英米圏の哲学を参照している(ヴィトゲンシュタインはドイツ語圏の人だが、英米圏の方により影響力が強いことは確かだろう)。この違いは、もちろんそれぞれの分野が生まれた言語圏を反映しているという面も大きいが、それだけでなく、扱っている問題の違いにも対応している。すなわち、精神病理現象を内部から記載し分析するには現象学的方法が向いており、精神医療を言語論的・行為論的に分析するには分析哲学的方法が向いているのである。
 以上のように、精神病理学と精神医学の哲学は研究対象・方法論・参照先のいずれも異なっているので、一方の研究者が同時に他方にも関わるということは容易ではない。とはいえ、精神疾患とは何なのかという根本的問題について、主流の生物学的精神医学とは異なる考え方を模索しているということは両分野で共通している。したがって、今後、これら二つの分野が交錯する部分で、新しい創造的なアイデアが生まれてくることが期待される。

精神病理の形而上学
 ザッカーの『精神病理の形而上学』は精神医学の哲学についての著作である。この本には「形而上学(metaphysics)」というものものしいタイトルが付いているが、これは決してこけおどしや喩えではなく、本当にこの本の前半は形而上学の議論によって占められている。そこで周到になされた議論の結論として、著者ザッカーはある立場を選択し、本の後半では、その立場から実際の精神医学的問題について論じていくのである。このような構成を取っている点で、これはまさに哲学者(ザッカーはもともとは臨床心理学者であるが)の著作らしい本であって、他の精神医学の哲学の研究者が示しているような実際的で柔軟な態度とはかなり異なったラディカルな態度を示している。
 ザッカーが精神疾患の存在論について、最終的に採る立場は「不完全共同体モデル」というものである。これは、すべての精神疾患が「自然種」「歴史的概念」「規範的概念」「実践種」という4つの要素のさまざまな比率による合成物だとするもので、表面的には極端に折衷的な立場である。しかし、このように折衷的な立場が正しいのだという結論に至るために、これら4つの要素のどれかを他のものより重視することを正当化することはできないという、徹底的な批判による相対化がなされている。各種精神疾患について、特定の観点に囚われない柔軟な議論を可能にするために、本質主義的バイアスを回避し、形而上学的な制約の少ない立場としてのプラグマティズムが選択されているのである。
 精神疾患についての上記の4つの要素のどれ一つとして、それだけでその疾患を完全に説明できる「本質」ではない。しかし、私たちはどうしても、自分の立場や好みによって、どれか1つの要素にこだわって、他の要素を重視する人たちと論争してしまいがちである。その点で、ザッカーの不完全共同体モデルは、精神医学に関するあらゆる論争について、冷静に合理的に判断することができるような一段高い観点に上って考えることを可能にする。
 このような意味で、この本は、ラディカルであると同時に穏健であり、理論的であると同時に実際的であるという、精神医学の哲学のあるべき姿を示す実例であるように思われる。精神医学と哲学の関係について興味を持つ人たちに、ぜひ読んでいただきたい。

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