新・精神病理学総論 人間存在の全体
K ヤスパース/山岸 洋[解説・訳」
[四六判/並製/390頁/定価4000円+税/ISBN978-4906502394]
今日、精神医学は、おそろしい停滞の状況の中にある。医療現場に身を置く医師として、他の医学分野の急速な進歩からはほとんど縁のない地点に足止めされているような感覚を私たちは味わっている。私たちの目の前には、私が医師になったころと本質的には何も変わらぬ状況が広がっている(もちろんそうは感じていない能天気な人たちもいる。それだけに精神医学の危機は根深いのである)。その目の前にあるものは私が医師になる前にも長くほとんど同じままであったのである。私たちは、一九九〇年代以降、脳の機能についての生物学的研究のすばらしい進歩に目を奪われていたのだったが、しかしそこからの成果によって私たちの臨床が三〇年前と比べてどれだけ変化したと言えるのだろうか。精神科診断の国際化と操作的基準導入のために精神科医の莫大な労力が投入されているが、それは患者や社会にどれだけの利益をもたらしたのだろうか。新たな抗精神病薬と抗うつ薬の導入が次々とおこなわれてきたが、私たちはむしろ無定見な処方を、こともあろうか医学の素人からさえ指摘される時代に直面している。精神科医の仕事のあり方全般に対しても、社会の一部から厳しい批判が巻き起こりつつある。
精神医学は、着実な科学的進歩という面で、明らかにこの一世紀にわたってヤスパースの時代に抱かれていた期待を裏切りつづけてきた。つまり、「総論」という書に記された各論的部分において、精神医学は当時のままに留まっている。では「総論」の総論的な部分であるこの第六部に述べられていることは、この精神科医療の停滞した今日の状況をいかなる意味において変える力を持っているのだろうか。