『精神病理の形而上学』へのいざない[2018.04.30]

『精神病理の形而上学』へのいざない

植 野 仙 経[洛南病院精神科]

drueno
はじめに

 『精神病理の形而上学』の原書 “A Metaphysics of Psychopathology” は2014年に刊行されたもので、その内容はそれに先立つDSM-5(原書2013年, 邦訳2014年)の作成プロセスにおける議論を反映している。とはいえ本書はDSM-5への批判や賞賛を展開するものではない。DSMへの賛否いずれかの陣営に与するのではなく、両者の争いを俯瞰的に描きだす一つの見取図を提示するものである。
 本書の著者ピーター・ザッカー(Peter Zachar)は臨床心理学者であり、かつ精神医学(あるいは臨床心理学)の哲学を一つの専門としている。本書においてザッカーは、精神疾患の実在性(reality)に関する本質主義的見解を批判し、代替案を提示する。このような考察は「精神医学の哲学」(philosophy of psychiatry)の名のもとに、英米圏において昨今積極的に展開されている。その主要な関連学会であるAAPP(Association for the Advancement of Philosophy and Psychiatry)の会報第24号(2017年1月発行)は、様々な論者が本書に関する考察を寄稿しザッカーがそれに応えるという、いわば『精神病理の形而上学』特集号とでもいうべき内容であった。このことは精神医学の哲学の分野における本書のアクチュアルな意義を示すものだといえよう。

 このエッセイでは読者を本書へといざなうために次のことを述べる。(1)『精神病理の形而上学』は原書のタイトルの直訳であるが、本邦ではややミスリーディングなものかもしれない。そこで精神病理(psychopathology)と形而上学(metaphysics)という二つの概念について注釈を加える。(2)次いで本書の主題、すなわち精神疾患の実在性を問うとはいかなることか、それに関する本質主義的見解とはどのようなものかを概観する。(3)そして本質主義に対するザッカーの批判の概要、ならびに精神医学の哲学におけるザッカーの見解への評価の一例を示すために、AAPP会報第24号に掲載されたイギリスの科学哲学者レイチェル・クーパーの論考を紹介する。(4)最後に、訳者の一人である私が思う、本書を楽しむための着眼点を提示する。

精神病理と形而上学
 Psychopathologyという言葉は精神病理学と訳されることが多い。本邦において精神病理学は、次のような学問領域として思い描かれることが一般的である。すなわち精神病理学とは、異常とされる精神現象を心理的な水準で記述し、その病態の理解を試みる学問分野である。そしてその際、現象学や存在論、精神分析やその影響をうけた現代思想が参照されることが多い。しかし英米圏において、psychopathologyはそのような学問分野を指す言葉としてではなく、精神科において扱われる症状や症候、病態や疾患などの総称としてしばしば用いられており、本書におけるpsychopathologyも後者の意味で使われている。

 Metaphysicsは伝統的に形而上学と訳されてきた言葉であり、本書もそれにならった。形而上学とは存在そのものについての学(「しかじかのものがある」とはいかなることかを問う学)すなわち存在論(ontology)を指す。本邦での西洋哲学の受容と展開の経緯、とりわけマルティン・ハイデガーの影響によって、形而上学・存在論といえばハイデガーの思想やその背景にあるギリシア哲学ならびにキリスト教神学を思い描く人が多いだろう。しかし英米圏においてmetaphysicsはもう少し広い文脈をもつ。すなわちmetaphysicsといってもハイデガーの思想やギリシア哲学におけるそれを指すとは限らない。また「しかじかのものがある」ことへの問いは、「しかじかである」という判断すなわち認識と密接に結びつく。ゆえに形而上学には認識論(epistemology)も含まれるという立場も希ではない。まとめると形而上学とは「しかじかのものがある(存在する)こと、また、それがしかじかのものであると知る(認識する)ことは、いかなることか」を問う学である。
したがって『精神病理の形而上学』というタイトルは、精神科臨床において問題となる現象すなわち精神病理現象について、それが「ある」というのはいかなることか、またその現象がしかじかのものであると知る(分類・診断する)とはいかなることか、といった問題をロジカルに考察するという、本書の内容を簡潔に表わしたものだといえよう。

実在性と本質主義
 本書の主題は精神疾患の実在性である。すなわち、しかじかの精神疾患、もしくは精神疾患一般は実在するのか否か、たとえば多重人格は実在するのか、そもそも精神医学的な病気とされる状態はリアルな病気なのか、といった問題である。
精神科疾患ではない疾患の場合、その実在性はあまり問題とされないように思われる。たとえば肺炎や骨折は実在の病気なのかと問う人はまず居ないだろう。それに対して精神科疾患の場合、それは精神科医や社会が作り上げたフィクションだという批判がたびたび提示されてきた。それは一つには、特定の社会的な先入観や政治的状勢の影響のもとで、ある状態が精神の病気として概念化された歴史があるからだろう。たとえば20世紀半ばにおける同性愛の扱いや、19世紀半ばの米国南部における「逃亡奴隷精神病」すなわちドラペトマニアの提唱である。また20世紀末の北米における「多重人格」の流行のように、その時代や地域において流布している病気のイメージが疾患のあり方に大きく影響することもあった。
 脳腫瘍や心筋梗塞といった身体の病気は社会情勢や文化の違いを問わず実在し、その症状や経過は変わらない。一方、精神疾患の場合、社会的・文化的な観念や価値判断が特定の疾患概念の成立やその疾患のあり方、さらには存在の有無にまで影響する。このような事情から、精神疾患の実在性は身体疾患に比べて疑わしいという見解がしばしば提示されてきたのだと思われる。
 しかし全ての精神科疾患が社会や文化の違いによって根元的な影響を受けるわけではない。たとえばアルツハイマー型認知症では記憶障害を主とする認知機能の低下が緩徐進行性にみられ、脳画像では海馬をはじめとする脳の萎縮が確認される。統合失調症や躁うつ病としてまとめられる病態にも共通の症状や経過がみられる。このことは洋の東西や時代の違いを問わず共通していると思われる。また、アルツハイマー型認知症の病因としてアミロイドβタンパクの産生と蓄積が想定されるように、統合失調症という疾患にもなんらかの病因が存在し、それによって特有の症状と経過が生じるのだと想定される。
 この想定は次のような考えにつながる。疾患という現象の根底にはその原因が存在する。その原因こそ疾患のあり方を規定する本質である。この原因すなわち本質は社会的な背景とは無関係に定まっている。この本質によって疾患の具体的なあらわれ、すなわち症状や経過、治療への反応性などが決まる。疾患とそれに似て非なるもの、あるいは一つの疾患と他の疾患との違いは、その根底にある本質の違いによる。これが本質主義的見解である。
 この本質主義的見解は他の診療科で扱われる疾患と精神科疾患とを統一的にとらえるものであり、医学の一分野である精神医学にとってまっとうなものである。しかし、この見解は、リアルな疾患とは結核や白血病のようなものであり、神経症やヒステリーはいわば疾患のフェイクであるというように、実在性の観点から本物の病気と偽物の病気とを線引きし、後者を医療の領域から蹴り出そうとするスタンスを導きやすい。
 もちろん、病気とその他の問題、たとえば貧困や犯罪などの問題との線引きは大事である。しかし病気とその他の問題との線引きを行なうことと、その線引きを根元的な本質の違いによって根拠づけることとは同じではない。また、ヒステリーや多重人格はリアルではないといったところで、それらの問題が解消するわけでもない。そこでザッカーはプラグマティズムの思想を参照し、本質主義的見解に代わる考え方の提案を試みる。ザッカーの具体的な主張については本書をみていただくとして、ここではクーパーによるまとめを紹介しよう。

精神医学の哲学における評価
 ザッカーは精神病理の領域を「不完全共同体」として考える。精神科医が扱う症状や疾患の集まりには、そのすべてに共通する特定の性質すなわち本質なるものはない。それらの精神病理現象の不完全共同体には、精神科医が最初にみていた状態、すなわち精神医学の黎明期に巨大精神病院に収容されていた患者にみられる精神病状態がはじめに属していた。その後の精神医学の展開とともに、神経衰弱ないし神経症といった精神病状態以外の病態ないしその症状も精神病理の不完全共同体に含まれるようになった。しかしそれは、精神病状態との関連性や精神科医療の専門家による治療的介入の有用性などの理由にもとづくものであり、恣意的に定められたものではなかった。
 疾患という抽象概念は、似た問題をかかえる人々をまとめて考えるのに役立つ。たとえば、その人々に今後生じる出来事や、ある方法による治療の見込みに関する予測を可能にする。この点は先に述べた本質主義的見解にもとづく分類でも同様である。しかし本質主義によれば、ある疾患にみられる症状や経過の共通性は、その疾患の根底にある本質の共通性に対応するものである。ある種別とその本質とは一対一に対応するものである以上、疾患の正しい分類方法は一つのものに限られる。
 それに対してザッカーは、精神科的な症候や疾患の集まりは種々雑多なものであり、それは本質の有無に応じて一意的に分けられるものではないと考える。たとえば、DSM-5の作成プロセスにおける争点の一つに、親しい人との死別に対する悲嘆によって生じた抑うつ状態をうつ病とすべきか否かという問題があった。本質主義的見解では、それをうつ病とすべきか否かは、その状態におけるうつ病の本質の有無によって決まる。一方ザッカーによれば、悲嘆によって誘発された抑うつ状態をうつ病とすべきか否かは、それをうつ病として扱い介入することがその人の苦しみを和らげるのに役立つか否かによって決まる。
 これは、ある物事を恣意的に分類することとは異なる。たとえば生き物は哺乳類・爬虫類・魚類などと分類することも、捕食者・被食者・分解者というように分類することも、実用的な観点から食べられるもの、薬あるいは毒になるもの、人に害をなすもの、などと分けることもできる。このように生き物の性質やふるまいの予測に役立つ理にかなった分類法は複数ある。そして、それは人間がほしいままにできるものではない(毒キノコを「食べられるキノコ」に「分類」したからといって、それが食べられるようになるわけではない。また天体には「食べられる」「食べられない」という分類を適用すること自体に意味がない)。精神科疾患の分類も同様である。いずれの分類法が最善であるかはそれを用いる人々の利害関心によって決まる。しかしこの見方は、何であれ精神科医や社会が精神疾患と呼ぶものが精神疾患なのであり、精神疾患とはそういう便利なラベルにすぎないのだ、といった何でもありの相対主義的見解とは異なる。
 クーパーは、このようなザッカーの見方は疾患の実在性に関する論争をクールダウンするものだと好意的に評価している。本質主義的見解では、疾患の実在性を問題視し、しかじかの疾患は実在か虚構か、本物か偽物か、自然的か人為的かなどと問うことになる。それに対してザッカーは、その状態をある疾患としてまとめて扱うことは何に役立つのか、その有用性を支持する証拠はあるのかといったプラグマティズム的な観点から問いを立てることを提案する。ザッカーの主張はこのような視点の転換をもたらすものである。
 とはいえ、クーパーはザッカーの見解の全てに賛同するわけではなく、ザッカーが行う形而上学的立場へのコミットメントについては批判的である。たとえば、ザッカーは真理の整合説をとる。真理の整合説とは、しかじかの信念が真であるか否かは他の真なる信念の集まりとの整合性によって決まるとする説である。この説は、たとえば「人を殺すのは良くないことだ」という信念のような、何らかの事実との対応という観点ではその真偽が判断しがたい信念の真理性を考えるうえでは都合がよい。しかし、ある信念が真であるとはいかなることかを考えるうえで、真理の整合説は一般的に受け入れられた見解とは言えず、議論は現在も進行中である。クーパーによれば、それゆえ対応説にせよ整合説にせよ、真理に関する特定の学説へのコミットは避けるにこしたことはない。そしてザッカーによる本質主義的見解への批判や精神疾患の分類に関する主張の多くは、特定の形而上学的枠組みへのコミットメントなしに成立する。だとすれば『精神病理の形而上学』における形而上学的枠組みは実のところ不要なものではないか、という論をクーパーは展開している。これはとても興味深い指摘であると私は考える。
 なお、この批判に対するザッカーの応答もAAPP会報第24号に収録されている。このエッセイでは省略するが、ご関心のある方はぜひ同号を参照されたい(2018年4月現在でも同会のウェブサイト〈https://philosophyandpsychiatry.org/〉内よりフリーアクセスが可能である)。

おわりに
 私が精神医学に関して学び始めたのは2000年前後のことである。当時は精神病・神経症・境界例といった旧く伝統的な分類の枠組みにはまだ力が残されており、DSMは新参の、いかにもアメリカ的で浅薄な分類システムと目されていた印象がある。しかし精神科臨床に携わりはじめた2010年ごろには、DSMは臨床と研究の双方における共通言語としてグローバルスタンダードの地位を確立していた。けれども、その設計部分にある「精神疾患は有害な機能不全である」とするジェロム・ウェイクフィールドの思想はほとんど知られておらず、1980年にDSM-IIIが成立する過程でなされた疾病概念や診断・分類をめぐる議論も忘れ去られていたように思う。これは、本邦の精神医学ではカール・ヤスパースやクルト・シュナイダーをはじめとするドイツ語圏の論者による厚みのある考察がすでに知られていたという事情によるのかもしれない。
 本書の翻訳作業において訳者は、形式的・皮相的とされがちなDSMや英米圏の哲学において、現代の精神医学の骨格をなす思想とそれに対する批判的考察がまさに開花繁栄しているという印象を受けた。それだけに、『精神病理の形而上学』は興味深い著作であると考える。そして本書は、作中でも言及されているウェイクフィールドの本質主義的見解や、精神医学史の大家であるエドワード・ショーターによる現代精神医学批判、さらに多重人格や遁走といった疾患概念とその概念のもとに分類される人々との相互作用であるループ効果(looping effect)を指摘したイアン・ハッキングの考察などと比較対照させて読むことで、さらに興味深い示唆をあたえてくれるだろう。

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