教育者としての霜山先生 

 霜山ゼミ第一期生の思い出

                         武田秀一

 

一九六一年四月一日イグナチオ教会の鐘の音、グラウンドから聞こえる運動部学生たちのかけ声、四谷の交差点を通過する路面電車の騒音を耳にしながら、満開の桜に彩られた外堀沿いの道を私は上智大学に向かっていた。当時は正門といっても柱も柵もなく道路との段差すらなかったがそこを通過するとようやく両側の建物に挟まれたメインストリートに陣取ったサークルの新入生勧誘の様子が目に入り、いよいよこれから大学生活をはじめるのだという緊張感が湧いてくる。式は学部別に四〇〇名も収容すれば満席になってしまうほどの小さな講堂を利用して行われた。これ以上大きな講堂は当時まだなかったのである。総合大学と呼ぶにはあまりにもこじんまりとした施設大泉学長の祝辞が、細部は思い出せないが新入生たちに入学の実感を与えてくれたことだけは、今でもはっきりと覚えている。入学式が終わると学科単位のオリエンテーションが開かれクラス担任が紹介された。「えっ!大学に来てまでクラス担任?」。早くも上智のファミリー的な側面の恩恵を受けることになるわけだが、一方ではなんだか高校までと変わらないじゃないか、といった複雑な気分にも襲われる。このとき教育学科長の稲富教授とともに、学科担任として紹介されたのが霜山教授だった。颯爽としたダンディーな装いに身を固めた先生は、「ちょっと怖そうだが、なんとなく親しみやすい」印象を与える若々しい教授だった。

  

学生生活を思いきり楽しもうと考えていた私は、通常のクラブとは別に、代議委員会とカトリック学生の会の執行部にも所属した。五月の連休中、代議員会が主宰するクラブ幹部対象のトレーニング・キャンプが日光で行われ、このキャンプにたまたま霜山先生がどういう経緯からか参加された。先生とともに学外で過ごすのはこれが初めてだったこのキャンプでご一緒したことにより、私は早くから先生がたいへんまめな方で、学生の面倒見がとてもよいことを知った。学生から頼まれれば断ることは殆どなく、どんなことにでも耳を傾け、どこへでも馳せ参じてくれるのである。この面倒見のよさゆえに、上智では、講演や発表を聞くことよりもオプショナル・ツアが楽しみだったような一年生でさえ、全国で開催される学会に参加する恩恵をこうむることができたのだと思う。

入学してまもなく、大学の公式の活動とは別にクラスのなかに「ヒコケン」とよばれる研究会がつくられた。正式名称は「少年非行問題研究会」。大礒の教護院を実習場所とし毎年の夏休みに合宿をしたり森田家庭裁判所判事を招いて勉強会を開いたり、鬼怒川の女子教護院を訪問したりと、今考えてもかなり密度の濃い活動を行う研究会だった。この研究会の成果はソフィア祭でも発表されたが、この活動を終始支えてくれていたのも霜山先生だった。さらに、すでに以前からあった僻地研究会や、のちに発足するカウンセリング研究会でも先生はアドバイザーとして懇切な指導に当たられていた。このカウンセリング研究会の合宿には、岡部祥平、平井久、霜山徳爾という錚々たる顔ぶれが集まったこともある。これらの研究会はクラス単位の集まりから徐々に学年を通してのそれへと発展していくことになる。上智大学の臨床心理学の基礎は、霜山先生の面倒見のよさによって、この頃に培われているのである。

  

当時の一時限目の開始時刻は午前八時三〇分。この時間に間に合うように教室にたどり着くことは学生にはとても辛いことだった。教師は始業のチャイムが鳴ると同時に教室に入り、中からしっかりと鍵をかけてしまうので遅刻するわけにはいかない。出欠は厳しく頃合いを見計らって教務課の職員が時間ごとに色分けされた出席カードを配りにくる。学生はだんだん要領を得て、各色のカードをくすねておき、さぼるときには全種類を友達に渡してその日の色の分を提出しておいてもらうといった作戦でこの難局を乗り切っていた。こういう形態の授業が普通であった時代、霜山先生はどの講義でも出席は採らなかった。講義の初日にまず、私は出席は採りませんと宣言する。ただし、試験には講義に出ていないと通らない問題を出しますよというだけである。先生の一般心理学は、一時限目に行われていたにもかかわらず、いつも大勢の学生が集まっていた。チャイムが鳴ると同時に教壇に立ち、おもむろに講義を始められる先生は、遅れてくる学生がいるとじろりとにらみつけはしたが、出席を強要することはついになかった。

 

毎週火曜日の昼休みには法学館二階の教育学科研究室で霜山先生を囲んでの自主ゼミが行われた。次から次へと先生から問題が出題され学生はその場で即答していかなけばならない。先生は活発な議論が展開されることを期待しておられたのだろうが、たいていは先生の声のみが響きわたっていたように思う。猛スピードで板書されては消されていくドイツ語のテクニカルターム。英語もまともに分からない一年生の身にとってはただ面食らうのみである。

 

三年生になってからのゼミはさらに壮絶だった。毎週課される宿題は五〜六冊の専門書をわずか一週間で読破し、その内容をレポートに纏めるという作業。次は何が読めるのか、などといった期待感を抱いている暇はなく、あれを読まされることになったらどうしようどうやってごまかそうかということばかり考えていたことを思い出す。一方では、東京家庭裁判所の少年審判への立ち合い、東京医科歯科大学・精神神経科でのインターン実習といった臨床実習のゼミ。医科歯科大学では、教授回診に同行したり臨床講義を聴講したりして、大いに緊張を強いられる時間を過ごさせていただいたが、理解できないながらも臨床の現場を知り得たことは筆舌につくしがたい経験となった。現在では考えられないような所遇であろうが、当時としてもこんなことを行っていた大学はめったになかったはずである。かなり無理をされた上での設定だったのではないだろうか。

 

先生の毎日のスケジュールは、当然のことながら殺人的だった。アポなしで先生を捕まえることはまず不可能であり、たとえ教授室で待ち構えていて運良く出会うことが出来たとしても、必ず誰かとかち合ってしまう。ひっきりなしに電話もかかってくる。この状態は学内のみならず学外にも及んでいた。先生がせっかちなのは、このような状況に原因があったのかもしれない。相手の話を最後まで聞かない、途中で必ず口を挟むといった癖は、昔も今もかわらない。先生が大の車好きで、当時の愛車コンテッサで小木貞孝先生とカーチェイスを繰り広げたとか、尋常ではない早さで入浴を済ませてしまうとかの伝聞も、先生のせっかちな性格がもたらした賜物なのではないだろうか。ただ、あれほど多忙なスケジュールをこなしていたわりには、先生の講義ノートに毎回ぎっしりと文字が書き込まれていたのが不思議だった。いったい講義の準備はいつしていたのだろうか。自分自身が教壇に立つ身となってみると改めて先生のエネルギーに驚嘆せざるを得ないのである。

  

いつのことだったか正確には思い出せないが、ある寒い冬の一時期、精神状態が不安定になり登校しても何もする気が起こらないことがあった。こんなときは、ただボーッとして汽車に揺られているのがいいのではないかと考えついたのだが、所持金が殆どなかったために先生に借金を無心に行ったことがある。さすがに先生は呆れ顔で、それならばいつまでもぐるぐる回り続ける山手線に乗っていれば良いではないかとおっしゃる。でも違うんです、先生。山手線は電車、僕は汽車でないとだめなんです。いまでこそ殆どの区間が電化されているが、当時は汽車すなわちSLがまだ長距離列車の主流を占めていた。結局先生に借金をして、私は金沢方面に出かけたのだった。早朝の永平寺雪深い山中の凍えるような場所で、黙然と座禅を組む若い僧たち、素足で掃除に励む修行僧をみるうちに、自分の抱える問題の愚かしさに気づかされたことがいまでも鮮明に思い出される。

大学院に進んでからは、先生の「命令」で非常勤としてある医院に勤務し始めたが、結局私にはそこがもっともふさわしいところに思え、卒業してからはそこを本拠にカウンセラーとしての活動を行うことになった。先生は、私自身よりも先に、私の適性を見抜いていたわけである。先生の学生に対する指導の仕方、支援の仕方をみていると、よくここまでできるものだと呆れてしまうことすらある。先生が学生たちに浴びせる辛辣な呼びかけ、おひね・おまめ・おちび・等々はいずれも先生の深い愛情の表現にほかならないのである。

先生は、いつの頃からか「早く引退し、田舎に引きこもって百姓がしたい」と口癖のように語っているが、まだ先生を引退させるわけにはいかない。先生の教え子にはいつも適度に満足させる者と適度に心配をかける者がいる。先生にこれから先さらに活躍していただくためには、この両方の教え子が適度に先生を刺激し続けていなければならない、と私は考えている。私はいうまでもなく心配をかける側の教え子であるが、先生にいつまでもお元気でいていただくためには、適度に心配をかけることも必要であると思っている。現在私が主宰する研究所の顧問を先生にお願いしているのはそのためでもある。先日お会いしたとき先生はしみじみと、上智の時代は「攻め」の時代だったと語られた。しかし、せっかちな先生には「守り」の姿勢は似合わないのではないだろうか。先生にはいつまでも「攻め」の時代を生きて欲しいと私は願っている。

        (たけだ・しゅういち カウンセリング・ルーム「つどい」主宰)

 

2000/8/10 (霜山徳爾著作集(第1巻)月報より)

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