チャールズ・バクスターの『初めの光が―歓びと哀しみの時空』 について

 

 成 田 民 子

 

 チャールズ・バクスター(1947年ミネソタ州ミネアポリス生まれ)という作家に初めて触れたのは、「ラヴ・ストーリーズ」(早川書房、1988年)という3巻からなる現代アメリカ短篇のアンソロジー第一巻に収録されている「世界のハーモニー」という作品を通じてです。ピアニストになり損ねた批評家とその恋人、音程を外してばかりいるソプラノ歌手の登場する風変わりな小品で、音楽を職業とする私にとってひどく身近な題材でありながら、その描写の鋭さとユーモアに心底びっくりさせられました。いつまでも読み終えたくない、という思いで読んだ貴重な作品の一つです。その後、『世界のハーモニー』『安全ネットを突き抜けて』『見知らぬ弟』(いずれも早川書房)の3冊の短篇集と初めての長篇、この『初めの光が』(原題 First Light)を読み、ますますバクスターという作家にひきつけられてしまいました。バクスターの読者というのはおそらく病みつきになって、決して数多いとは言えない作品を繰り返し読む人が多いのではないでしょうか。

『初めの光が』は私にとって、一生に一度これだけは自分で翻訳したいと願った作品です。

 これは隅々まで緻密に計算され構成された小説ですが、決してリアリティを欠くことはなく、人物すべてが生身の人間として続む者の心に像を結びます。主軸になるヒューとドルシーの兄妹が30代あるいは40代の時点から物語が始まり、章を追うごとにドルシーの誕生時まで時間が逆行しますが、常に光(タイトルにも使われている)が重要なモティーフとなり、人物の内面を照射しています。光も多種多様で、懐中電灯の明かりから原子爆弾の炸裂に伴う閃光、宇宙の星まで、基本的にアメリカの家族の日常が舞台になっているにもかかわらず、何の無理も矛盾もなく描かれ、対極にある闇も当然浮かび上がってきます。物理学から神話、ボードレールの詩まで自由自在に使いこなすバクスターの博識には驚きますが、投げ込まれた素材はすべて必然に基いているので、どの一行も全体と緊密に結びつき、時には一つの何でもない光景が後の章のための巧みな伏線となっています。最初に一読した時には気づかずに読み落とし、再び読む段になってやっと拾うことができる、というところが何箇所か出てきたとしても不思議ではありません。おそらく作者は、彫刻家が素材そのものに完成作品の姿を透視しながら終始彫ってゆくように、また優れた作曲家がモティーフを発展させながら一音の無駄も加えないように、常に作品の全体像を見据えながら書き綴っていったのでしょう。しかも人物は、いったん生み出されたら、おのずから呼吸し、それぞれの意志に従ってでもいるかのように人生の時間を進行させていったに相違ありません。この作品自体、生み出された瞬間から古典の素質を備えた傑作と呼んでも過言ではないでしょう。

 時間の遡行とともに兄妹の成長の過程が明らかになってゆくわけですが、人物の内面の動きについては、淡々と、感情を直接描写することなく、行動や状況を通して表現されています。作者の筆致はあくまでも抑制が効き、冷静にしかも深みをもって書き進められています。もちろんそこには人間関係の葛藤があり、ネガティヴな感情があり(憎しみにまでは至らないものの)、おそらく愛と呼ぶしかない絆もあります。センチメンタルな要素を一切排除しながら、強く胸に迫ってくるものがあり、再読、三読の度に新たな発見の喜びを与えてくれる作品です。

 兄妹の育ったファイヴ・オークスという町(架空の町ですが、バクスターの他の作品にも登場します)や人々に、ワイルダーの戯曲「わが町」を思い浮かべましたが(作中でも第七章で、ドルシーが俳優の夫サイモンに、「わが町」の台詞のようなお喋りはやめてくれ、と言う場面があります)、「わが町」がどちらかといえばある年齢に達してから本当に理解し易くなる作品なのに対し、バクスターの作品はより強い緊張感を持ち、若い世代の共感をも得られ易いように思います。現実の私たちの生活でも、家族以外には、生まれたときから終生つき合っていく人間が滅多にいないように、この作品でもウェルチ家の人間以外は特定の章のみに登場します。にもかかわらず、それぞれが強烈な個性をもって描かれ、作品の最後まで圧倒的な存在感を保ち続けます。

 なお、作品中重要な役を担うカルロ・パヴォレーゼという科学者(若き日にロスアラモスでロバート・オッペンハイマーの指揮下、原爆開発を行った、という設定)を理解するのに、友人の田口るり氏が翻訳に携わっていたために以前偶然に読んでいた『ロスアラモスからヒロシマへ―米原爆開発科学者の妻の手記』(フィリス・K・フィッシャー著、時事通信社、1987年)がたいへん役立ちました。パヴォレーゼという人物の、原爆という死神を生み出すことに荷担してしまった過去、本人の意志と関わりのない生を再生産する(ドルシーがその子どもを産むことによって)ことになってしまった晩年、それを想像するのにロスアラモスでの生活がいかなるものであったかを知るのは私にとって興味深いことでした。カルロの例に見られるように、人生とは自らの計画とは異なった方向に進みがちだ、ということもこの作品のモティーフの一つです。私たちは今刹那だけではなく、20代のための10代を生き、30代のための20代を生きているはずなのですが、あるいは予期せぬ方向に自らを導くために日々の営みを行っているに過ぎないのかもしれません。この作品の人物たちの日々が、読み手の心に小さな波を立てることができれば、作品の紹介者としてこれ以上嬉しいことはありません。

 (なりた・たみこ氏は作曲家、桐朋学園講師)

 

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