スピノザについて−「レンブラントの生涯と時代」より
〔「スピノザがアムステルダムを離れなければならなくなったいきさつ」の一部抜粋〕
一六五六年八月は、見渡す限りの青空に白熱の太陽の輝く月であった。一日中、緑の牧場と化した干拓地が、太陽のあふれるばかりの好意を受けて横たわっていた。また一方では、夕方の長くつづく薄あかりが人の心を誘って、存在の神秘を哲学者らしいあきらめの気持ちで瞑想させたので、私は人生を額面通りに受け取り、人生は苦悩や疑惑よりも幸福の肩をもっている、と思わず宣言したくなるほどであった。
私は正確な日付は忘れてしまった。しかし、私が息子と一諸にハウトフラハト(Houtgracht)通りにある我が家の玄関に腰をおろして、とりとめもない話をしていたのは、この八月の最後の週のある時であった。その時、我々は突然バルフ・デスピノザの訪問を受けた。若いスピノザ(というのは、この余分の「e」は我々オランダ人の舌にはちょっと面倒であったし、実際に必要な時にはいつもスピノザというだけで充分間に合うように思われたからである)この若いスピノザは今まで一度も私の家にきたことがなかった。私はしばしばメナセの家で彼に会ったことがある。彼はメナセの家にいつも夜、時を選ばず立ち寄っては、一服の煙草をふかしたり(彼はこの気晴らしが無性に好きであった)、会話に耳を傾けたり、あるいはまた誰か適当な相手がいると、チェスを二、三番さしたりしたものである。
私はサスキア〔レンブラントの妻〕が亡くなった頃、このゲームをレンブラントに教えようとしていたが(しかし、この人は数学上のこととなると、からきし頭が廻らなかった)、それ以来、歩も王も手にしたことがなかった。しかし特に私の病院計画の悲惨な崩壊後は、この種のゲームに私は何となくくつろぎを覚え始めた。私はスピノザと幾晩も粗末な象牙の盤を囲んで過ごした。それでもこの盤はメナセの質素な家財道具の中では、見ばえのするものの一つであった。私は陽気でどことなくからかうような輝きを見せる反面、憂鬱そうな目をした、この若いユダヤ人が好きになった。しかし私は彼より随分と年上であった。おまけにスピノザのオランダ語は余り上手ではなかった。また私はスペイン語もポルトガル語も知らなかったが、一方スピノザは英語を知らなかった。ヘブライ語もカルデア語もシリア語も、必ずしも思想を交換するために便利な手段ではなかった。そこで我々は少しフランス語とラテン語を交えたオランダ語に頼って、難関を切り抜けなければならなかった。しかし我々はまだ本当に心安くなったことがなかった。それであるから、私は彼が日暮れのこんな時刻に現われたのを見ていささか驚いたし、また彼の思いつめた様子に少々戸惑ったのである。何故なら、つい先程も述べたように、万物が平和と調和を保っている珍しい宵だったからである。
そうはいうものの、私はスピノザを見て心から嬉しくなり、息子が彼のために私の書斎から一服の煙草を持ってくる間、腰をおろしているようにいった。ところが彼はそれを断わり、彼が私のところにきたのは私の診察を受けるため、医者としての私に会いたかったからであり、彼のために時間をちょっと割いてもらえないかといった。
もちろん、私に異議がなかったので、一緒に家に入り、私は彼を診療室に案内した。我々が部屋に入るや否や、スピノザは外套と上衣を脱いでシャツを広げた。
彼は「先生、よく見て頂けませんか。屋根裏部屋のトランクから本を取り出そうとして、暗いために何かにぶつけてしまいました。傷がついたと思います」といった。
私は彼に「ほほう、妙な屋根裏部屋ですね。今は八時ですし、一○時にならないと暗くなりませんからね」と答えた。
彼は一瞬ためらってから、「間違えました。どうもすみません。地下室というつもりでした」と答えた。このぎこちない嘘に、我々は互いに顔を見合わし、そうしてどっと笑い出した。この瞬間、二人の間に花崗岩の防壁のように立ちふさがっていた年齢の相違は、親切な言葉に接した怒りのように、消失してしまった。この時から我々は無二の親友であった。
「私はへまな嘘つきです」とスピノザは弁解した。「我々は非常にきびしいしつけを受けました。嘘をいうことは安息日に働くことにも等しい最大の罪です。その結果、私は上流社会では非常にみじめな思いをしました。我々のきまり切った会話の半分は、小さな気休めの嘘からなっているからです。どうか私の身に起こったことについては、話さないで下さい。何かに突き当たったことは本当です。しかし、それは短刀でした。私は相手がどれほどの害を加えたかを知りたいのです。彼は私の外套をかなり深く切りました。短刀には毒が塗ってあったかも知れません」
私はシャツを少し広げて見たが、皮膚がちょと擦り切れているだけで、血は出ていなかった。それでも大事を取って、私は傷口を焼き金で焼いてから包帯をした。私が手伝って彼に上衣を着せてやると、彼は外套を拾い上げた。
私は右肩の裂け目を指さしながら、「仕立屋に出さないといけませんね」といった。
彼は「いいえ、私はこの外套を我が民族の記念として取っておくつもりです。これを最後に彼らは私に何もくれないでしょう」と答えた。
そして、そういったかと思うとぶり返しが始まり、彼は顔色も青ざめかすかに震えた。彼は弁解して「彼らがあのこと〔破門〕をこれほど痛切に感じているとは、思ってもみませんでした」といった。それから彼は私が急いで彼に渡したフランスのブランデー(これは私がまさにこういう急場のために診療室に備えておいた上酒であった)の小さなグラスを手に取って、一気に飲み、ちょっとむせた。彼は「今によくなります」といったが、私は彼に留まるように頼んだ。我々は式台のところに戻った(私の息子は夏の初めからずっと狂ったように取り組んでいた、カラシを粉にする風車の設計に再び没頭していた)。我々は腰をおろして煙草をふかした。そうして、人々が永久に趣味の事柄、個人の好みの問題として終わるにちがいない主題について、違った意見をもっているという程度のしかつめらしい理由のために、隣人の殺害を企てるとは、何とも奇妙な世の中になったものだと話した。
同時に私はこういうことが、こともあろうに、我が愛するアムステルダム市の真只中で起こりえたということに、ひどく腹が立った。我々の都市は割合に殺害や暴力がなかった。もちろん、移動する船員の数は多かったし、また世界の各地から移住者も政治上の亡命者もやってきたので、撃ったり刺したりすることはある程度あった。しかし刑事裁判所のおえら方は、すべてを見通す目と、遠くまで届く腕と、彼らのつかんだ何物も決して放さない指とをもっていた。彼らは不粋な検察官ではなかった。彼らはまた一連の紙上の法律による天国の実現も信じなかった。海上で七、八か月を過ごした船員たちが、ポケットを金貨でふくらませ、少しの刺激にも飢えた心を抱いて到着する港では、ある程度の乾杯やお祭り騒ぎは必ずあるものである。しかし、これらの不幸な連中が、いつも目を光らせている周旋業者の手中に再び陥る前に、たとえどんなに馬鹿騒ぎをしようと思っても、あるいはどんなに酔っ払うつもりであっても、外で平和と秩序を乱すようなことはあってはならないのである。たまたま我を忘れたあげく、相手に石の瓶をぶつけたり、折りたたみナイフで顔に切りつけたりした者は、もし命からがら逃げ出して処罰され、地方の監獄の一つで四、五か月の間、ブラジル産の木材を削ることくらいで終わったならば、運がよかったと思ってよいであろう。
計画された殺害となると、私は三年か四年に一回以上あったとは思わない。それなのに私はここにこうして罪のない若いタルムード学者と、顔をつき合わせて腰かけている。彼は私に暗殺計画の犠牲者であった証拠として、胸の傷跡を見せたばかりである。
これははなはだ困った問題であった。スピノザが私にその原因を話してくれた後でさえ、私は怒りがこみ上げてきた。何故なら、一度でも我々がこういう事件を見逃すことにしたならば、どんなことになるか、分かったものではないからである。それ故、私は彼にこの事件を誰にもいわない、という約束を与えようとはしなかった。外科医として私は、私の目にふれた暴力沙汰を一つ残らず報告する義務があった。しかし私は妥協して、この問題に、巧みに鉄槌を下すことで有名な警視庁長官の注意を促すようなことはしないと約束したけれども、直接に市長の一人に伝えて、かような兇行の再発を防止するために取るべき処置を彼に決定してもらう、ということにした。
これ以上危険な目に合わせないために、私はその晩スピノザを私の家に泊めた。彼は診療室の簡易寝台で眠った。翌朝早く私はコルネリス・デ・フラーフ(Cornelis de Graeff)の家に出向いて、火急の謁見を願った。閣下はまだ部屋着に上靴という恰好で、朝食を摂っているところであった。・・・・・・
リュカス=コレルス『スピノザの生涯と精神』(学樹書院)より
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