【書評】スピノザ哲学研究

【書評】

工藤喜作『スピノザ哲学研究』を読むkashiwaba-p

柏葉武秀


はじめに

本書は1972年刊行の本格的なスピノザ研究書である。日本のスピノザ研究に画期をなす「研究」書といってよいだろう。いくつかの貴重な例外はあるにせよ、スピノザ哲学の概説的な紹介あるいは受容にとどまりがちであった時代を経て、1970年代にこの国のスピノザ研究は新たな段階へと踏み出していったと思われる。すなわち、海外の研究文献を踏まえながらも、独自にテクストと対峙し、オリジナルな解釈を編み出していく段階である。

まず目次を一読するだけで、本書が網羅的な研究書であることに驚かされる。なるほど「網羅的な」入門書であれば桂寿一の『スピノザの哲学』(1956年、東京大学出版会)が既に世に出ていた。あるいは波多野清一の『スピノザ』(1910年、波多野清一全集第1巻、1968年所収)は、単なる紹介の域を超えた「研究」の書であっただろう。工藤の仕事はいずれの点においても、両書をはるかに凌駕する。たまたま手元にあったこれら二つの書物を定点として本書の研究書としての歴史的特徴を明らかにしていきたい。具体的には、形而上学における二つの論点を取り上げる。ひとつは「神の因果性」(第二部14)から「コナツス」(第二部17)までのスピノザ哲学の難問の象徴とも言うべき因果論である。この論点は「神の因果性」と「直観知」にさらに区別することができる。もうひとつは、形而上学のトピックスのなかでは論じられることがきわめて少ない「属性の無限数」(第二部13)である。

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スピノザ形而上学における難点、それもおそらく哲学史上あるいはスピノザ研究史上もっとも有名な難点は、個物の位置づけをめぐるものであろう。すなわち、実体一元論の体系にあってわれわれが日常的に知覚している具体的な諸事物さらにはひとりひとりの人間までもが、かりそめの存在でしかないのではないかという問題である。この点をめぐっては、ヘーゲル以降同工異曲の論難が繰り返されているのはよく知られていよう。個物はいったんはその実在を認められることはあるけれども、最終的にはその自律性を喪失し唯一存在する実体の中に吸収されついには消滅していく。かかる批判をいかに捉えかえし、可能であれば反駁し、あるいは一元論と整合的に再解釈するようにスピノザ解釈は常に強いられてきた。

波多野によれば、スピノザは「融和す可からざる困難」に陥った。有限個物からなる世界を「純然たる仮現」に貶めたというのである。しかし、有限個物が存在するのは厳然たる事実である(波多野 369-370)。だが「この事実は、スピノザ哲学の形而上学的前提よりしては、いつまでも全然不可解」である(388)。すなわち、「如何にして神の永遠にして無限なる本性が有限の様〔様態-引用者の補足。以下同様〕となり得るか」が不可解なのである。桂もまた同様の指摘に続けて、スピノザの体系にあっては有限な個物はせいぜい「その存在の面でも作用の面でも、専ら消極的なものとして規定されている」に過ぎないと断じる(桂 204)。というのも、有限な個物は本性上無限ではないという意味ではなんらかの「欠如」と規定されざるをえないからであり、その存在においては「他の個物との因果的連鎖」に依存せざるをえないからである。この二重の意味で個物は消極的でしかない。とはいえ、この困難を放置する解釈もまたありえないだろう。

波多野はスピノザが有限個物からなる世界を「仮象」に貶めつつも、コナトゥス(本書ではコナツス)を個物の本質に見定めていく。桂は物体的個物の消極性を乗り越えるものとして、やはり「自存力」に注目する。つまり、個物に満ちたこの現実世界の多様性を救い出すには、スピノザの体系には一見して明らかな弱点がある、この弱点を克服しうるとするならば、その道はコナトゥスから直観知へとつながる細く峻険な登山口しかないのである。この問題に対して整合的な解釈を打ち出したのが工藤である。

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スピノザ一元論が個物の自律性を保障できないとの論難は、結局のところ個物を産み出す機械論的因果性と神が個物の原因となるときの因果性との齟齬に帰着する。というのも、後者は幾何学的な秩序をなすのに対して、前者は通常私たちが理解する物理的な因果性だと思われるからである。スピノザ研究でしばしば用いられる「垂直的因果性」と「水平的因果性」の区別を導入するならば、神が個物の原因となるとされるときの垂直的因果性と個物の因果的連鎖からなる水平的因果性とのあいだに容易には橋渡しできない亀裂が走っているのである。工藤はこの亀裂を認識論的なスピノザ解釈で乗り越えようとしている。

工藤本人は用いていないけれども、説明のために先ほどの二つの因果性に即してその解釈を紹介しよう。まず工藤は、神の因果性を「論理的な理由と帰結」に還元する解釈は、「人間の知的な産物である数学」に屈するかのように神を貶めるという。『エチカ』での「幾何学的方法」に拘泥するのは、かえって論理的な理由-帰結関係では表現しきれないスピノザに独特の神の因果性を捉え損なってしまう(290)。たしかに研究史上神の因果性には静的解釈と動的解釈がありうるだろう。しかし、静的解釈は神における「原因=存在=能力という等式」(291)を見逃しているがゆえの誤りであると工藤は退け、動的解釈を擁護する。「存在も活動も実は神にあっては同一のもの」である以上、神の自己原因性とあらゆるものを産出する活動は同一の必然性に従っているはずである(297)。工藤はこの必然性理解をさきの二つの因果性を統一的に読み解く鍵だと見なしている。真に問われねばならないのは因果性というよりはむしろ「神の必然性の意義」(298)なのである。それは神の因果的産出活動の必然性が、個物の本質のみならず現実存在の必然性をも包摂する点に求められる。工藤が言及する多くの研究者はこの点に注意を払ってこなかった。

スピノザは「観念の秩序と連結は、ものの秩序と連結と同じである」(E2P7)と述べている。有名な平行論の定理である。工藤はこの定理を支えている思惟の自己原因あるいは実体としての性格を強調する。スピノザにおいて神の自己認識は、現実に存在する無数の個物を産出する神の活動すなわち存在と同一の必然性に従っている。「神の無限の本性から形相的に生じるすべてのものは、神の観念から同じ秩序、同じ連結によって、神のうちに客観的に(観念として)生じる」(E2P7C)からである。神の自己認識とは思惟属性における因果性にほかならない。すなわち、個物の本質とともに現実の存在を産出する神は「永遠の相のもとに」自己を認識するのである。たしかにこの認識は理由と帰結からなる関係であるようにみえる。しかし、神の自己認識が単に論理的なあるいは無時間的なものであるはずはないと工藤はいう。思惟属性における無限に多くの観念が論理的な関係としてしか理解できないのは、有限知性の認識に限界があることを意味するにすぎない。工藤の卓抜な読みが冴えるのはここである。人間が「自己の有限性を超出して、無限者の思惟の一環として形成される」とき、「人間の認識が単なる論理的な理由と帰結を超えて」いき「神との合一」の高みに到達するときにはじめて、実在する個物間の因果性と幾何学的方法で表現されている理由と結果の関係が一致する。二つの因果性が一致するのは、人間知性が「神の無限知性の一部」となるときなのである。われわれが有限な自身のあり方をなにほどか乗り越えていく先にほのみえてくるのが、「原因と結果」と「理由と結果」との同一性だというのが工藤の結論である(301-302)。

水平的因果性と垂直的因果性とを、有限知性と無限知性の認識レベルの差異に差し戻して解決するのが工藤の解釈である。この読みは神の本質に力動性を読み込みながら、諸観念と実在する諸事物の産出活動における必然性を属性の平行論の上に基礎づける独創的で魅力的なものである。われわれが眼前の事物の間に見いだす因果関係は、じつはわれわれの認識能力が否応なく帯びている限界に由来するかもしれない。このような解釈はすぐれて現代的な着想でもある。たとえばベネットの「場の形而上学」と共通の着想である(Bennett, J. 1984. A Study of Spinoza’s Ethics. Hackett Publishing. )。

ベネットはスピノザ哲学における延長属性は「場の形而上学」だ読むことができるという。ベネットの解釈によれば、延長属性下の実体は唯一存在する空間となる。空間はさまざまな質を帯びる領域をもち、通常対象とみなされているものはこれらの領域にほかならない。空間における個物は空間内の領域から論理的に構成されるものとなる。ベネットが他の論文で上げている例を参照するならば、われわれが感覚を通じて見知っている小石は十全に認識されるならば「小石的な」特定の空間領域だという。最近ではヴィルヤネンがベネットの議論を継承して、物理世界における個々の物体を空間的な力の変様として記述しようとするスピノザ解釈を打ち出している(Viljanen, V. 2011. Spinoza’s Geometry of Power. Cambridge University Press)。これらの解釈が正しいとすると、ある小石がに別の小石がぶつかってもとの小石が弾き飛ばされていくといった光景を、素朴な因果関係の描像とみなすのはは失当であることになる。工藤のスピノザ解釈に引きつけて述べ直すならば、次のようになるだろう。人間の有限知性が神の無限知性の水準に組み入れられるとき、小石の衝突はある種の「論理的な」空間変容であること、そしてそれこそが人間知性には疑いをはさみえないと思われた因果関係の真の姿であることが明らかとなるのだと。

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とはいえ、問題は以上の認識論的な議論によって終わるわけではない。神の側から個物の因果的産出を十分に論じたところで、現実に存在する個物が決定され尽くしているとの懸念は依然として手つかずだからである。個物の積極的な存立をスピノザがいかに論じているかについて、コナトゥスと直観知をめぐる工藤の考察を確かめておく必要がなお残っている。というのも、この組み合わせに論者はスピノザにおける個物の積極的な位置づけを期待していたからである。じっさい桂は「僅かながら我々個物にも、自律性に似たもの」が「自存力」つまりコナトゥスであって、直観知こそが「「自存力」を最もよく発揮するものである」と述べていたのである(桂 238)。多くの論者と同様に、工藤もこの路線を踏襲している。しかし、桂が物体のコナトゥスには個物の自律性を望むべくもないので、「「精神」の本来の働き」(桂 208)へとかすかな期待をつないだのとは異なって、工藤は物体レヴェルでのコナトゥスを、人間身体の特殊性に定位して、より積極的に評価している点をまずは確認しておきたい。たしかに身体は、物体一般と同様に、他の諸物体との因果関係を離れて存在しえない。しかし、人間身体は「この関係を通じて自己の実現を果たさなければならない」と工藤は述べる。人間身体は受動的に外部から決定されるだけではなく「完全性を獲得すべく努力する」、しかもこの努力が最終的に完全性に到達するのは、現実の時間のうちにおいてではなく、永遠のうちにおいてなのである(355)。工藤はここに人間身体の特殊性を見いだすのである。

スピノザがコナトゥスを論じるとき、多くの記述が延長属性下での物理的な領域を対象としているのは否定しがたい。とはいえ工藤はコナトゥスを心身にわたる概念として分析している。この特徴は本書でも、個物の永遠本質あるいは定義と現実的本質つまりはコナトゥスとを心身平行論に基づいて同一だと論じ(325)、「精神のコナツス」(355以下)に一節を設けていることに顕著に現れている。工藤のスピノザ解釈のユニークさをここでも確認できよう。この解釈が直ちに直観知の議論へとつながっていくのも理解しやすい。コナトゥスが個人としての人間の「自己実現」を目指している以上、真の自己認識ともいうべき直観知と密接な関係がすでに予想されるからである。

身体は外部の諸事物との間に物理的因果関係を結んでいるけれども、われわれはそれを十全に認識できてはいない。それゆえスピノザによれば、われわれは自分がそうだと信じているものではない。自己は意識するとおりに存在しているわけではないのである(E2P27-P29)。それでは、われわれには真の自己認識は不可能なのだろうか。そうではない。工藤は直観知こそがわれわれの特殊な本質をつかみとる自己認識であるという。それはもはや自身以外のなにものかを対象とする認識ではない。というのも、その「認識作用が対象と関係なく構成的である」ことが直観知の最大の特徴だからである。直観知は「自己自身において原因からの認識、つまり結局は自己自身を「かぎりの神」として認識すること」なのである(415)。自己の本質を対象とする直観知は、思惟属性における実体の一部をなしている自己認識と言ってもよいだろう。自己認識としての直観知を工藤は「かぎりの神」とやや神秘的な言い回しで表現している。だがその内実は自己と他者との本質上の差異を見分けることにある。直観知は「いわば自他の弁別的認識であると同時に自他の本質認識」であって、自己の特殊的本質と他者の特殊的本質との認識そのものなのである(400)。

かくして、波多野と桂が期待をかけたものの、十分には解明できなかった直観知の意義が工藤によって明らかとなった。工藤によれば、直観知は「かぎりの神」である自己の積極的な定立そのものである。それは自己の完全性を目指したコナトゥスの最終形態といっても言い過ぎではあるまい。直観知が「かぎりの神」と呼ばれるのは、他者とは異なる自己の本質を獲得する営みが「永遠性」に関わっているからである。私が他ならぬ「この私」でしかありえない必然性は、スピノザ哲学の文脈を度外視したとしても、やはり永遠の哲学的な問いに値するだろう。

 

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「神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体のことである」(E1Def6)。スピノザにおける神の定義である。この定義はただちに一元論を旨とする形而上学体系に深刻な難題を投げかけざるをえない。「如何にして本体〔実体〕の絶対的一元性並びに単純性は性〔属性〕の多と一致するや」と波多野は問う。スピノザは「還元す可からざる性〔属性〕の多が、その本質はまさしく性〔属性〕にて成れる本体〔実体〕」と不可分にして一つであると「唯断言」するのみでその論理をついに提示できなかった。波多野によれば、「無限に多くの属性からなる実体」とは端的に「不合理の事実」にほかならない(波多野 351-2)。

本書「属性の無限数」(第二部13)において、工藤はこの難問に正面から取り組んでいる。その解釈の特徴は『短論文』での虚構論を積極的に組み込んでいく点に求められる。工藤によれば、無限に多くの属性は神の定義を構成するものである。したがって、それは証明の対象ではなく直観されるもの、工藤の言葉遣いに即していえばスピノザが抱いた神についての「根源直観」をなすものである。『エチカ』ではこの直観の合理化が試みられているのである。ところでスピノザは神に無限に多くの属性を帰属させるために実在性と属性との比例関係(E1P9、P10)に訴えている。しかし、私たちの有限知性では実在性あるいは属性をどれほど「多く」数え上げていっても、決して無限に到達することはできない。スピノザは有限から無限へと「飛躍」を強いていると工藤は述べる。その結果、有限知性の限界にあって私たちは無限に多くの属性を「虚構」するに至る。『短論文』の虚構論(KV1/1,8)によれば、数学の知識に比肩する必然的な知識としか考えられない虚構があるという。この虚構は私の外にある外的な主体を原因として、私たちの理性にいわば強制されている。無限に多くの属性もまたこの種の虚構なのである。とはいえ、それは虚構にとどまるわけではない。というのも、この場合外的な原因とは絶対無限の実体たる神であるからである。もとより、神の存在はいかにしても疑いえない。神が必然的に存在する外的な原因であるからには、「無限に多くの属性」は虚構の仮象を脱して必然的に存在する実在の姿を露わにする。印象的な一文を引用しておく。

「この根源直観に虚構された属性の無限数が結びつくのである。そしてこれによって後者が虚構であることを止め、真の実在として、すなわち神そのものとして見なされてくるのである」(278)

かくて「絶対無限の根源的直観」と結合して、思惟の虚構が有限性の限界を突破していく。こうして「属性の無限数」は証明されるのである。

「無限に多くの属性」について、本書で1章を割いて論じている事実にまずは刮目しなくてはならない。工藤の表現を借りるならば「属性の無限数」をスピノザ解釈上の論点に挙げる研究者は今なお多くはない。じっさい桂には気にかけている痕跡すら見られない。もちろん現在の私たち、すなわちゲルーの大著『スピノザ』を繙読するスピノザ研究者にとっては、さほど奇異には映らないかもしれない(Gueroult, M. 1968. Spinoza I. Aubier-Montaigne)。1968年にゲルーが大著『スピノザ』第一巻を上梓し、「神の発生的定義」解釈によって属性を無限に多くの「唯一属性の実体」と規定して、『エチカ』の幾何学的な証明プロセスにおいて無限に多くの属性からなる実体=神が生成するさまを解明していったことはよく知られている。とはいえ、内外のスピノザ研究において、ゲルーの問題提起を真剣に受け止めている論者は依然として多いとはいえないだろう。期せずして本書はスピノザ形而上学研究の、ある特定の方向においてではあるけれども、同時代の先端を走っていた。

先端的な研究であったからこそ、工藤の立論に対しては疑問を呈せざるをえないところもある。すでに述べたように、工藤はもっぱら『短論文』の虚構論に依拠して「属性の無限数」を論証している。この解釈には類書に見られない独自性が確かに認められる。しかしこの論点に関わるかぎりでも、『短論文』と『エチカ』においては重大な差異があると思われる。それは、神の存在証明の機序である。『エチカ』では神の存在証明は冒頭から相当数の定理と証明を経てようやく登場する(E1P11)。工藤はこの証明ステップをどのように理解しているのだろうか。ゲルーの「発生的定義」によれば、唯一属性の実体から無限に多くの属性からなる実体すなわち神が構成されるプロセスが神の存在証明にいたって完成する。工藤はスピノザの根源的直観に訴えてはいるものの、『エチカ』での神の存在証明プロセスについてはとりたてて言及していない。だが『短論文』と「幾何学的秩序で証明された」『エチカ』との連続性を「属性の無限数解釈」の文脈において把握しようとするのであれば、やはり絶対無限たる神の存在証明と無限に多くの属性との関係との論理的な関係を再考する必要があったのではないだろうか。すなわち、いかにして根源的直観が幾何学的に捉え直されたかを論じるべきだったのではないだろうか。

 おわりに

『スピノザ哲学研究』をわずか二つのトピックスに即して紹介してきた。本書もまた時代の制約を免れてはない。工藤が目にすることができた研究文献には、いまとなっては旧弊な書物も含まれてはいる。だが、テクストに沈潜するオーソドックスな研究である本書の射程ははるかに長い。リアルタイムで欧米の研究に接しているはずのこの時代のスピノザ研究者は、どれほどスピノザを読むことができているのだろうか。取り組むべき課題のほとんどすべてに対して自説をひととおり述べてみせた本書を再読し、評者の痛感するところである。

とはいえしかし工藤のスピノザ研究全体という観点からすると、本書にはなお重大な欠落を指摘しなくてはならない。本書にはスピノザ政治論をめぐる一連の論考がまったく収録されていないからである。『神学政治論』と『政治論』で展開される議論を、ある種の有機的国家論と捉えていく工藤の立場は、たとえばマトゥロンが『エチカ』第4部と政治学的著作との内在的関連をある種強引に読み込む仕事と共鳴しうるだろう(Matheron, A. 1969. Individu et communauté chez Spinoza. Minuit)。じっさい、亡くなった年に評者に送られてきた私信で、工藤はフランス語圏スピノザ政治論研究の動向に関心を寄せてもいた。ともあれ、本書の魅力をいささかなりとも示すことができたとするならば、短い書評の任務は十分に果たせたものと考える。
*『エチカ』からの引用はすべて中公クラシックス版の工藤・斎藤共訳『エティカ』(中央公論新社、2007年)に依拠している。

◆リンク スピノザ哲学研究(工藤喜作)  スピノザの生涯と思想(リュカス=コレルス) 精神の眼は論証そのもの(上野修)